アニメを評価するファクターについてあらためて考えてみる

作画は死んでいても、演出は死んでいないアニメというものがあるのだ。今期だと、『M3 ソノ黒キ鋼』がそうではないだろうか。3文字アニメーターなど、明らかな作画の粗雑さをところどころで感じられるのだが、なかなかどうして佐藤順一、演出は的確で、とくにカットつなぎ、シーンつなぎのタイミングなんかが上手いと思うのだ。

『M3』までいくと極端だが、『悪魔のリドル』は、作画いまいち・演出そこそこのアニメであると思った。印で表すならば「作画△(いまいち)、演出○(そこそこ良い)」である。同じように『M3』に印を使うと、「作画× 演出◎」となるだろうか?

作画と演出を、分けて考えていいものなのだろうか。アニメレビューサイトの「あにこれβ」では、評価基準に「作画」を設けているものの「演出」を設けていない。演出の評価も、「作画」項目に代入しなさいと運営側が指示しているのなら、そうするのだが、そういった痕跡はない。となると「あにこれβ」は「作画と演出を分けて考えなさい、ただし演出は評価点に入りません(演出は評価の中に入らない)」と言っているかのようだ。

「下手の考え休むに似たる」の火鷹さんは、作画と演出を統合して評価していた。わたしも基本的にはそう言う考えだった。しかし最近では、『M3』のように「作画×、演出◎」みたいなアニメの評価において、火鷹さんのような方式(作画と演出を合わせて考える)では個性が見えにくいのではないか、とも考えている。
要するに、作画と演出は関連させて考えるべきだが、むやみに混ぜてはいけないという考え方にわたしは傾いてきているのである。



アニメを評価するファクターはいろいろある。作画、演出、脚本、声優、音楽、キャラ、サービスシーン、ギャグ、話題性、知名度……。仮に、評価するファクターを複数設定するという前提に立って話を進めていく。

評価するファクターを複数設定する場合、「何をファクターとするか」という根本的な問題が出てくる。また、表記にも揺れが生じるであろう。たとえばわたしは「脚本」と「構成」を分けて評価したほうがいいと考えている。だが「あにこれβ」の場合、このふたつの要素は「物語」という項目に収斂されてしまうのである。

わたしが「あにこれβ」のようなサイトを作って、「こんな項目を用意したのでこれで評価してください」というような評価項目を設定するとしたら、以下のようにする。

「作画」「演出」「構成(シリーズ構成)」「脚本(各話脚本)」「主題歌」「BGM」「キャスティング」「声優の演技」 そして「キャラクター」。
ちなみに火鷹さんは、「作画と演出」、「構成と脚本」、「主題歌とBGM」、「キャスティングと声優演技」をひとまとめにしていた。

わたしが今後心がけたいのは、声優の演技の評価と、キャラクターの評価を個別に行うということだ。
たとえば『ぎんぎつね』ならば、10点満点で、「金元9、三木6、関俊8、賢章8、藤村6、赤崎8……」「まこと8、銀太郎6、パパ8、悟8,ハル4、ユミ9……」といったぐあいにである。

命題

「アニメを考え、語ること」は、
1.他人の受け売りでアニメを考え、語ることではない。
2.アニメについて、自分が持っている先入観に逆らい、乗り越えるための行為である。
3.アニメの全体像を知ろうとするための手段ではない。
4.むろん、アニメの全体像を伝えようとするための手段でもない。
5.アニメに対し行き詰まっているからこそ可能な行為であり、アニメに対し行き詰まっている人に対して向けられた行為でもある。
6.対話を前提とした行為である。

そこに立ち現れるということ

きょう、上野の東京国立博物館に行った。日本美術なんて果たして理解できるんだろうかとか思っていたが、展示はなかなか予想以上に楽しかったのである。なんというか、前近代のいわゆる古美術・骨董品ではあるけれども、展示品を見るわたしの眼前に、展示品が現前している感じ、言い換えるならば、「今ある」ように、それがわたしの前に立ち現れている気がしたのである。ただの古美術・骨董品以上のものを感じたのである。例えば、焼き物や彫像を造った制作者が、わたしの眼前で、「たったいまそれを制作したばかりである」という錯覚のようなものが感じられた。

なぜ、展示された土器や仏像、伊万里焼などの文化財が、まるで現代のものとして、たったいまそこで作られ、差し出されたような錯覚をわたしは覚えたのだろうか。いわば土器や仏像、伊万里焼はそこに立ち現れていた。おそらく確かであることは、わたしが、感性や直観によって、展示品の現前性を認識したということである。既に持っていた知識やその知識による分析的推論をもってして、現前性を理論的に確かめた、というわけではないと思う。この体験は、今まで博物館を訪れた時には、覚えたことがなかった。

これをアニメに敷衍してみよう

アニメの現前感覚、つまりアニメがそこに立ち現れる感覚とは、どういうことだろうか。言うまでもなくそれは「感覚」である。まず、われわれはアニメを観る時、感覚をもってしてアニメを把握しているのではないか。少なくともわたしは、アニメを観始める時、直観的・感性的にアニメを把握している。

程度は多かれ少なかれ、われわれがアニメを観る時には、感覚の力がはたらいているのではないか。いわばその時の、感覚の程度の多少は、アニメに対する距離の取り方と対応しているようにも思える。わたしはアニメに対し、感覚が及ぶ範囲が広く、アニメに対する距離はまた近いということを、おぼろげながら自覚している。わたしという現実とアニメは、かなりの程度「密接」している。その思いが加速する時、わたしはわたしという現実を、アニメと同化する。

わたしは感覚によって直観的・感性的にアニメを把握し、アニメと同化するかのごとく密接している。まさにその瞬間、東京国立博物館の土器や仏像や伊万里焼に見出したような、現前感覚すなわちそこに立ち現れるという感覚と同じような、アニメが(アニメ自体として)そこに立ち現れるという感覚を覚える。アニメは、単に制作されたものとしてではなく、<そこにいきいきと生きているキャラの息遣い>のようなものとして立ち現れる。

正確に言えば、たったいまそこで土器・仏像・伊万里焼が制作されて差し出されるという、きょう博物館で覚えたような、現前感覚が生む錯覚と、ふだんわたしがアニメを観るときに経験する、<そこにいきいきと生きているキャラの息遣い>のようなものの<実感>とは、等質のものではない。土器や仏像や伊万里焼には、制作者が介在するが、わたし自身のアニメを観る行為においては、制作者はむしろ捨象されているからだ。

きょう東京国立博物館で感じたような、展示品がそこに立ち現れるという感覚のようなものを――そこに制作者の息遣いは介在しないにしても――例えばキャラの躍動感の「現前」として、肌で感じるならば、わたしはその時アニメを楽しんでいると真に言えるのである。

よく眺めるということ

和辻哲郎『古寺巡礼』を読み始めて痛感させられるのは、自分がいかに映像作品や周囲の風景を観察できていないかということである。そして観てとったものをことばに落としこむ能力も足りないのである。それほど、『古寺巡礼』の冒頭を読んだだけでも和辻の観察眼と描写力にはうならされる。

『古寺巡礼』の冒頭で和辻はアジャンター壁画のことをいっているのである。「昨夜出発の前のわずかな時間に」アジャンター壁画の模写を友人に見せてもらったというから、電車の中で写真をずっと眺めていてあのような詳細な批評を書いたというわけではない。ほんとうにわずかな時間で和辻はアジャンター壁画を観察し、記憶に留めたのである。

もっとも和辻のアジャンター壁画に対する批評は印象論にとどまっているのは否定できない。ではあるがここでの要点はそんなところではなく、観察眼に裏打ちされた和辻の旺盛な描写力である。アジャンター壁画に対し、和辻はまず「色調」に注目する。そしてその色調を「濡れた感じのまるでない」とか「妙に冷たい、沈んだ感じ」と形容する。

この形容はたしかに印象批評にすぎないという”印象”を受ける。しかしここで最も重要なのは、和辻が対比を使ってたくみにアジャンター壁画の色調を描写していることだ。和辻はここでインド人とギリシア人の文化を比較している。そして色調の次に顔の表情という要素に着目し、「ギリシア女の画」と比較して「ヒステリカルな暗さ」「豊かという感じがまるで欠けている」とアジャンター壁画の表情を批評している。

そしてなおかつ和辻は、「写実」という観点に着目し「ギリシア風の画家」が「写実の地盤を離れることがない」のに対しインドの画家が描く構図は「芸術家の幻影から来ないで、描こうとする物語(たとえば大乗仏教の神話)の約束から出ている」と考察している。和辻はアジャンター壁画の批評においてどこまでもギリシアとの対比を用いて描写、説明につとめている。

ここでわたしが立ち止まって考えるべきことはおそらく、
・和辻がわずかな時間でアジャンター壁画を観察し記憶に留めたという事実
・印象批評ではあるが旺盛な描写力があるということ
・そしてその描写力が「対比」という手法に裏打ちされているということ
の3点であろう。

わずかな時間で頭に焼き付けるということ

ここからは「アニメを観るということ」に敷衍して和辻の観察眼からフィードバックできることを探っていきたいと思う。

まず、おそらく和辻がアジャンター壁画の写真を電車に乗っている最中にずっと眺めていてこの文章を書いたというわけではないということである。友人の「Z君」の家で「わずかな時間」で観察したのである。

さしずめ壁画の写真を電車に乗っている間ずっと眺めているという行為は、「アニメの録画をずっと再生して見続けている」という行為に対応するだろうか。もっとも和辻は写真を眺める代わりに頭のなかでずっと観察した壁画のことを考えていたようである。

だとすると「ずっと眺めている」という行為がかならずしも万能ではないといえるのではないだろうか。経験はないだろうか。何度アニメの録画を観返してもうまくブログやTwitterに書くためのことばが出てこないということが。

アニメの録画が諸刃の剣であるという話にもっていきたい。「ずっと眺めている」という行為はかならずしも万能ではない。わたしの経験論であるが、番組の録画を何度眺めていても、いや能動的に分析考察しつつ観ているつもりでもなにも閃かないということは多い。そもそもにおいてこのアニメ番組が大量に氾濫するご時世、ひとつの番組に長くこだわってはいられないという制約がある。HDD残量の問題。いつかわたしも某アニプレッションで書いたがひとつのアニメをじっくりと観返すという時間はわたしたちから消え失せつつある。

その流れ、アニメの氾濫に逆らおうとしても益になることが多いとは言えないだろう。だとしたらひとつのアニメをじっくりと観返すというあたりまえだったはずの方法、つまり「よく眺める」という行為に近いやり方がかならずしも今の流れに適合するとはかぎらないのである。

だとしたら「ずっと、よく、眺める」という行為・手法の代わりになるやり方とは何なのだろうか。ここで和辻の「わずかな時間」で眼に焼き付けたという回想に学びを得ることが可能ではないだろうか。すなわち、わずかな時間で眼に焼き付けるための観方をすればいいのではないだろうか、という、素朴な問題提起。

和辻が「Z君」の家でどういった意識・意志をもって「わずかな時間で」アジャンター壁画を眼に焼き付けたかどうかは、わからない。和辻の画を観ることに対する意識・意志をさぐることはわたしの課題である。和辻の意識・意志をさぐることはアニメを観ることに対する意識・意志を見出す取り組みに敷衍できる。

それにしても「わずかな時間で」眼に焼き付けることは「ずっと眺める」ことではないにしても「よく観察する」ことと矛盾はしないだろう。

だとしたら今までのわたしが如何に観察を怠ってきたことか! わたしはこの6、7年間くらい、ずっと左目でテレビ画面を、右目でパソコンの画面を見てきたのである。つまり片目だけでアニメを流し見していたのである。これからはちゃんと両目でアニメを観たいと思う。

長くなりすぎるのでここらへんでこの節は打ち切っておくが、他方重要な問題として「壁画のような動かない画と対比してアニメが画が動き、音が出るものである」というような問題が出てくる。

対比と描写力

それにしても和辻の描写力にはうならされる。和辻の描写の巧みさを描写する技巧、語彙力をわたしは持ち合わせていない。だから簡素なことばしか出せないが、和辻の描写力を支えるものとしてひとつ言えるのは「対比」を文章の基盤に置いているということだ。

すなわち、アジャンター壁画の批評において和辻は、インド文化とギリシア文化を対比させている。インド文化とギリシア文化の間に線を引いている。それは線で分かつということでもあり、線で結びつけるということでもある。

この「対比」という方法をアニメを語ること――ここでは特にアニメを描写すること――に敷衍させるならば、一つのアニメ作品だけ考えていてはアニメは語れないという真実がほの見えてくるのではないか。どういうことかというと、作品Aだけ考察の対象とするのでは考察は機能不全に陥る。作品Aを考察・批評の対象にするにしても、作品Aと作品Bを対比させるという方法でなければ詳らかな考察・批評はできなくなるといっていい。

つまりひとつのアニメ作品だけを観て、ひとつのアニメ作品だけを考えているのではアニメは考えられないし語れない。だがふたつのアニメ作品を見ていればそれで豊かなことばが抽出できるということではないような気がする。やはり10作品くらい観るごとにアニメに対するセンスというものも段階が上がっていくのではないだろうか。そうやってたくさんのアニメ作品が入った抽き出しの中から、当座の作品Aと対比させうる対象としての作品Bを持ってくる――

大量の作品をストックするとは、日夜大量の録画予約をさばくという行為とは、もちろんイコールではない。



参考文献:『古寺巡礼』和辻哲郎著、岩波書店、1983

カレイドスター3話 少しだけ 

オーナーのカロス・永戸は不器用な男である。不器用にしか生きられない不幸な男である。そして時に他人をも窮地に陥れる。それはカロスに関係する人物だけでなくカロス自身にとってもまた負い目になる。

このアニメではわざとカロスの内面を描写しないのだと思う。なぜだろうか? サラとの関係だったり何度もステージを経営危機にさせたりとか弱みみたいなものは視聴者にも感じられるのだけれど、彼の内面に立ち入ることはわざと回避させているような感じがする。それはおそらく彼の不器用すぎる面を際だたせるために採用された方法なのだろうが、カロスに限らずユーリ、レオンといった男性キャラにもっとスポットを当てる『カレイドスター』というのも観たかった気がする。

こういうことは『カレイドスター』という作品の限界とこの作品がアニメの未来に遺した可能性に関する示唆を含んでいるが、ここで深入りはしない。

もしかしたら10年前のわたしはそういう不器用なカロスの一面的な部分しか観れていなかったのかもしれない。そしてそういうカロスを半分だけ許せなかったのかもしれない。もっともこのアニメが人間の多面的な部分――それは『カレイドスター』というタイトル自体にあらわれている――を映しているのは作品を何回も「観返す」ことでわかってくるのだけれども、それにしてもカロスという人間に同情を寄せるには長い時間がかかったものだ。

それはわたしがわたしで他人に対し理解を与えることに苦難してきたからだと思う。人当たりが強いカロスとは違った意味で他人に対し理解を与えられなかったのだと思う。だから10年前『カレイドスター』を初めて観た時のカロスに対する第一印象は同族嫌悪だったのかもしれない。いまでは同族嫌悪してしまうわたしの性向みたいなものにもひとまずのあきらめがついているのだが。ともかく歳を取ることでカロスに対する同族嫌悪が同情や共感に変化してきている。

カレイドスター』の3話を何度も観返していると、この回がやがて視聴者のわたしにカロスについて考えさせることを巧妙に予期させていたことがわかる。3話はある意味でカロス回なのである。アニメを観返すことでキャラクターへの理解も変わっていき、多層的、多角的な視覚が観えてくる。自己にとってのそういうアニメが特別な、宿命のアニメなのである。

機動戦士ガンダム第2話『ガンダム破壊命令』もう少しだけ

ところでこの回だけでもさまざまな主要人物をめぐる事態が進行しているのだが、その代表がキャスバルアルテイシアの再会であろう。この兄妹をめぐる事態を最終話まで引っ張らせるわけだが、実を言うとシャア・セイラ兄妹のドラマには昔っからあまり興味ないのよねえ、俺。理由は、なんか華がありすぎるというか。ふたりが向かい合っているビジュアルが華々しすぎるのよね。

星山博之の回想によると富野はシャアとセイラがお好みだったようだが、星山自身はもっと泥臭いキャラクターが好きで、セイラに「軟弱者!」とぶたれるカイ・シデンなんかがお気に入りだったらしい。僕もカイとミハルの悲劇的なエピソードが好きだった。もっとも悲劇的といってもカイの成長をきちんと描けてるわけだからあれは前向きでもあるのだが。

だがしかしセイラは紛れも無くこのアニメの重要キャラの一人であって、セイラを軸にどう『ガンダム』というアニメ自体が描写されていくかは今後も考えなければならない課題であろう。そういえばセイラってたしかにシャアの妹なんだけど、シャアみたいに強烈な言葉遣いをあんまりしない気がするんだよな。より正確に言えば、シャアのエキセントリックさが受け継いでるんだけどそれが薄まっているというか。

そしてもう一つの主要な関係がアムロとブライトの関係である。この回の最後なんかアムロ、ブライトに明らかに敵意剥き出しであり、ブライトさんにしてもそんなにアムロが弾薬使いすぎた事に対しキレなくても……と思う。

なんというか、ジオンのほうがアットホームですらあるんだよな。緊張感の欠如。もちろん裏ではひどい粛清とかやられているんだろうけど、ホワイトベースにあるようなギスギス感はアニメの表面上に見えてこない。ジオンの方はまったり戦争が進行している雰囲気すらある(毎回重要人物が死ぬけどw)対してホワイトベースアムロとブライトのせいではあるがなんか空気がピリピリしてて、観ていて落ち着かない。

最終的にどうなったんだろう、アムロとブライトの関係性は。「親父にも打たれたこと無いのに〜」→「だから甘ったれというんだ〜」で終わったわけじゃないだろう。なんかこの二人、永遠に仲良くならないまま『逆襲のシャア』まで関係を引き継いでしまったのではないんだろうか。だとすると水と油みたいに反り合わないやつは永遠に仲良くなれないままズルズルと過ぎていき、それが真実であるというのが『ガンダム』に入り込んだ富野的なコミュニケーション論なんだろうか。

富野は自分の作品を「いや〜哲学がありますねえ」みたいに褒められても、「自分が作品で”哲学”している」なんてほんとうは思われたくないのかもしれない。富野自身は大言壮語を吐きがちであっても、本当は自分や自分の作品をそんなに高尚と思われるのはいやなのかもな。

だから「殴られずに大人になる奴がどこにいるか〜」なんてほんとのところは思ってなかったのかもしれないし、『ガンダム』シリーズには富野自身の「ポーズ」みたいな成分が多いのかもしれない。今後も一層富野アニメの表層的理解を超えた分析が必要になってくるだろう。それはそうと、アムロとブライトの関係も宇宙世紀を通してなんだか有耶無耶になってしまった感があるが、それこそもっと立ち入って分析するべきなのかもしれない。

機動戦士ガンダム第2話「ガンダム破壊命令」

それにしても番組の第2回から主役機の「破壊命令」とはずいぶん冒険したサブタイトルである。ご存知のとおり第1話のサブタイトルは「ガンダム”大地に立つ!”」であり、大地に立った途端破壊されてちゃあたまったもんではない。

そう、前回でガンダムは”大地”に立ったのである。大地といっても地球とか惑星の地面のことではなくコロニーの”大地”であるが。もはや地球ではなくスペースコロニーが彼らの自然であり、大地なのである。

しかし大地に立った途端、ガンダムは宇宙に連れて行かれる(正確には宇宙への脱出)。いちおう地上戦だったコロニー内の戦闘からいきなり宇宙での、しかもシャア専用ザクとの戦闘を強いられるのである。さっきから大地に立ったと思ったら破壊されそうになったり地上戦やったと思ったら宇宙戦強いられたりとか、ファーストガンダムの展開が突飛であるかのようないい方をわざとしていますが、要するにこの時代のアニメ、展開が速かったんですね。

ただ、物語だけ取り出すなら展開はたしかに速いんだけど、それでいてひとつひとつの描写が細かいのがこのアニメの恐ろしいところなんだよな。なんというか、登場人物の一挙手一投足が。登場人物の一挙手一投足をちゃんと描写しているのが見て取れるのだ。作画枚数はたしかに少なめなんだろうけど、キャラの動かし方にしても要点をきちんと押さえているのである。

物語がアニメの全てじゃないんだよな。とりわけキャラに付随する物語にわれわれはこだわりがちだけど、キャラクターとストーリーだけでアニメが成り立っているんではない。アニメは描写の積み重ねでもある。物語だけ追う観方だとつい描写の連続を見過ごしてしまう。

ところでこの回アムロビームライフル撃ち過ぎだろw