よく眺めるということ

和辻哲郎『古寺巡礼』を読み始めて痛感させられるのは、自分がいかに映像作品や周囲の風景を観察できていないかということである。そして観てとったものをことばに落としこむ能力も足りないのである。それほど、『古寺巡礼』の冒頭を読んだだけでも和辻の観察眼と描写力にはうならされる。

『古寺巡礼』の冒頭で和辻はアジャンター壁画のことをいっているのである。「昨夜出発の前のわずかな時間に」アジャンター壁画の模写を友人に見せてもらったというから、電車の中で写真をずっと眺めていてあのような詳細な批評を書いたというわけではない。ほんとうにわずかな時間で和辻はアジャンター壁画を観察し、記憶に留めたのである。

もっとも和辻のアジャンター壁画に対する批評は印象論にとどまっているのは否定できない。ではあるがここでの要点はそんなところではなく、観察眼に裏打ちされた和辻の旺盛な描写力である。アジャンター壁画に対し、和辻はまず「色調」に注目する。そしてその色調を「濡れた感じのまるでない」とか「妙に冷たい、沈んだ感じ」と形容する。

この形容はたしかに印象批評にすぎないという”印象”を受ける。しかしここで最も重要なのは、和辻が対比を使ってたくみにアジャンター壁画の色調を描写していることだ。和辻はここでインド人とギリシア人の文化を比較している。そして色調の次に顔の表情という要素に着目し、「ギリシア女の画」と比較して「ヒステリカルな暗さ」「豊かという感じがまるで欠けている」とアジャンター壁画の表情を批評している。

そしてなおかつ和辻は、「写実」という観点に着目し「ギリシア風の画家」が「写実の地盤を離れることがない」のに対しインドの画家が描く構図は「芸術家の幻影から来ないで、描こうとする物語(たとえば大乗仏教の神話)の約束から出ている」と考察している。和辻はアジャンター壁画の批評においてどこまでもギリシアとの対比を用いて描写、説明につとめている。

ここでわたしが立ち止まって考えるべきことはおそらく、
・和辻がわずかな時間でアジャンター壁画を観察し記憶に留めたという事実
・印象批評ではあるが旺盛な描写力があるということ
・そしてその描写力が「対比」という手法に裏打ちされているということ
の3点であろう。

わずかな時間で頭に焼き付けるということ

ここからは「アニメを観るということ」に敷衍して和辻の観察眼からフィードバックできることを探っていきたいと思う。

まず、おそらく和辻がアジャンター壁画の写真を電車に乗っている最中にずっと眺めていてこの文章を書いたというわけではないということである。友人の「Z君」の家で「わずかな時間」で観察したのである。

さしずめ壁画の写真を電車に乗っている間ずっと眺めているという行為は、「アニメの録画をずっと再生して見続けている」という行為に対応するだろうか。もっとも和辻は写真を眺める代わりに頭のなかでずっと観察した壁画のことを考えていたようである。

だとすると「ずっと眺めている」という行為がかならずしも万能ではないといえるのではないだろうか。経験はないだろうか。何度アニメの録画を観返してもうまくブログやTwitterに書くためのことばが出てこないということが。

アニメの録画が諸刃の剣であるという話にもっていきたい。「ずっと眺めている」という行為はかならずしも万能ではない。わたしの経験論であるが、番組の録画を何度眺めていても、いや能動的に分析考察しつつ観ているつもりでもなにも閃かないということは多い。そもそもにおいてこのアニメ番組が大量に氾濫するご時世、ひとつの番組に長くこだわってはいられないという制約がある。HDD残量の問題。いつかわたしも某アニプレッションで書いたがひとつのアニメをじっくりと観返すという時間はわたしたちから消え失せつつある。

その流れ、アニメの氾濫に逆らおうとしても益になることが多いとは言えないだろう。だとしたらひとつのアニメをじっくりと観返すというあたりまえだったはずの方法、つまり「よく眺める」という行為に近いやり方がかならずしも今の流れに適合するとはかぎらないのである。

だとしたら「ずっと、よく、眺める」という行為・手法の代わりになるやり方とは何なのだろうか。ここで和辻の「わずかな時間」で眼に焼き付けたという回想に学びを得ることが可能ではないだろうか。すなわち、わずかな時間で眼に焼き付けるための観方をすればいいのではないだろうか、という、素朴な問題提起。

和辻が「Z君」の家でどういった意識・意志をもって「わずかな時間で」アジャンター壁画を眼に焼き付けたかどうかは、わからない。和辻の画を観ることに対する意識・意志をさぐることはわたしの課題である。和辻の意識・意志をさぐることはアニメを観ることに対する意識・意志を見出す取り組みに敷衍できる。

それにしても「わずかな時間で」眼に焼き付けることは「ずっと眺める」ことではないにしても「よく観察する」ことと矛盾はしないだろう。

だとしたら今までのわたしが如何に観察を怠ってきたことか! わたしはこの6、7年間くらい、ずっと左目でテレビ画面を、右目でパソコンの画面を見てきたのである。つまり片目だけでアニメを流し見していたのである。これからはちゃんと両目でアニメを観たいと思う。

長くなりすぎるのでここらへんでこの節は打ち切っておくが、他方重要な問題として「壁画のような動かない画と対比してアニメが画が動き、音が出るものである」というような問題が出てくる。

対比と描写力

それにしても和辻の描写力にはうならされる。和辻の描写の巧みさを描写する技巧、語彙力をわたしは持ち合わせていない。だから簡素なことばしか出せないが、和辻の描写力を支えるものとしてひとつ言えるのは「対比」を文章の基盤に置いているということだ。

すなわち、アジャンター壁画の批評において和辻は、インド文化とギリシア文化を対比させている。インド文化とギリシア文化の間に線を引いている。それは線で分かつということでもあり、線で結びつけるということでもある。

この「対比」という方法をアニメを語ること――ここでは特にアニメを描写すること――に敷衍させるならば、一つのアニメ作品だけ考えていてはアニメは語れないという真実がほの見えてくるのではないか。どういうことかというと、作品Aだけ考察の対象とするのでは考察は機能不全に陥る。作品Aを考察・批評の対象にするにしても、作品Aと作品Bを対比させるという方法でなければ詳らかな考察・批評はできなくなるといっていい。

つまりひとつのアニメ作品だけを観て、ひとつのアニメ作品だけを考えているのではアニメは考えられないし語れない。だがふたつのアニメ作品を見ていればそれで豊かなことばが抽出できるということではないような気がする。やはり10作品くらい観るごとにアニメに対するセンスというものも段階が上がっていくのではないだろうか。そうやってたくさんのアニメ作品が入った抽き出しの中から、当座の作品Aと対比させうる対象としての作品Bを持ってくる――

大量の作品をストックするとは、日夜大量の録画予約をさばくという行為とは、もちろんイコールではない。



参考文献:『古寺巡礼』和辻哲郎著、岩波書店、1983