カレイドスター3話 少しだけ 

オーナーのカロス・永戸は不器用な男である。不器用にしか生きられない不幸な男である。そして時に他人をも窮地に陥れる。それはカロスに関係する人物だけでなくカロス自身にとってもまた負い目になる。

このアニメではわざとカロスの内面を描写しないのだと思う。なぜだろうか? サラとの関係だったり何度もステージを経営危機にさせたりとか弱みみたいなものは視聴者にも感じられるのだけれど、彼の内面に立ち入ることはわざと回避させているような感じがする。それはおそらく彼の不器用すぎる面を際だたせるために採用された方法なのだろうが、カロスに限らずユーリ、レオンといった男性キャラにもっとスポットを当てる『カレイドスター』というのも観たかった気がする。

こういうことは『カレイドスター』という作品の限界とこの作品がアニメの未来に遺した可能性に関する示唆を含んでいるが、ここで深入りはしない。

もしかしたら10年前のわたしはそういう不器用なカロスの一面的な部分しか観れていなかったのかもしれない。そしてそういうカロスを半分だけ許せなかったのかもしれない。もっともこのアニメが人間の多面的な部分――それは『カレイドスター』というタイトル自体にあらわれている――を映しているのは作品を何回も「観返す」ことでわかってくるのだけれども、それにしてもカロスという人間に同情を寄せるには長い時間がかかったものだ。

それはわたしがわたしで他人に対し理解を与えることに苦難してきたからだと思う。人当たりが強いカロスとは違った意味で他人に対し理解を与えられなかったのだと思う。だから10年前『カレイドスター』を初めて観た時のカロスに対する第一印象は同族嫌悪だったのかもしれない。いまでは同族嫌悪してしまうわたしの性向みたいなものにもひとまずのあきらめがついているのだが。ともかく歳を取ることでカロスに対する同族嫌悪が同情や共感に変化してきている。

カレイドスター』の3話を何度も観返していると、この回がやがて視聴者のわたしにカロスについて考えさせることを巧妙に予期させていたことがわかる。3話はある意味でカロス回なのである。アニメを観返すことでキャラクターへの理解も変わっていき、多層的、多角的な視覚が観えてくる。自己にとってのそういうアニメが特別な、宿命のアニメなのである。