『生徒会役員共*』を観ながら考える その2

ところで、個人的には、第2期になって、津田タカトシに向けての複数の女性キャラの恋愛感情が強調されるようになったという印象を受ける。とくに天草シノと津田タカトシの関係がわたしは気になる。1期より段違いにシノと津田の関係が「男女としての」関係に進展しつつある、という「予期」を映像を観ていておぼえるのである。

もちろんそれは、個人的で、印象論的なものにすぎない。1期よりシノと津田の関係が進展したといっても、いま1期の映像は手元にないし、1期の映像を脳裏に自動再生する能力等あるはずがない。つまり1期との比較のしようがない。ただしかし観ている人はみんな1期の記憶が薄れ、1期との比較のしようがなくなっているのかもしれない。

比較とはむずかしいものだ。ここでは1期と2期の程度の違いが問題にされている。〜より大きい/小さい、〜より多い/少ない、〜より強い/弱い、という「判断」を論理的に導くのは異常なまでに困難である(というよりもこれができたら大学者になれる)。第1段落で「1期より段違い〜」にという物言いをわたしはしたが、どうして「段違い」という物言いが安易にできるのか、むしろわたしという主観的判断の外にいる読者の方には奇っ怪に思えるだろう。

それに天草シノと津田タカトシの関係が「気になる」というのは「趣向」「趣味」の問題にすぎない。ただわたしがふたりの距離が近づいたらドキドキしちゃうだろうなと思っているだけだ。だがしかしこういったいわば「カップリングに対する趣味」の「差異」が書き手の個性を形作り今までのアニメファンダムを支えてきたこともたしかなのである。

いわば今、津田タカトシに向かい何本かの矢印付きの直線が引かれている。例えばそれは英稜高校・魚見と津田を結ぶ線なのかもしれないし、荻村スズと津田を結ぶ線なのかもしれない。言わばそのいくつかの線の中から、天草シノと津田を結ぶ線がとりわけ色濃くわたしの眼前に浮かび上がっているのだ。シノと津田を結ぶ線が、わたしにとって特権的に浮き彫りにされているのである。

こうしてみるとブログやTwitterでアニメを語る行為が個人的なものになるのも悪いことではないのかもしれない。むしろ確実に、益になることのほうが多い。そうだ、わたしはかつて「ブログとは個の表現である」というようなことを書いたのだ。基本的には今もそれは妥当なブログの定義だと思っている。とりわけ趣味に関するブログ、まさにアニメブログのようなものはそうだろう。わたしのアニメに対する認識は日夜流転しているが、アニメブログに対する認識はあまり変転していないのである。

例えば素朴なブロガーだったら、シノと津田の関係を面白おかしく描写することだろう。例えば素朴なSSの書き手だったら、ふたりの関係を面白おかしく二次創作に仕立て上げることだろう。こんな回りくどく読みにくい長文にしなくても本来はいいのである。

しかしだとすれば、”面白さ”をわたしのこの『もっと最高の夢を』というブログの売りにするのは筋違いというものではないだろうか。ブログが個だとしたら、わたしはブログを面白おかしく書く必要はないのである。わたしにブログが面白おかしく書けるわけがないのである。むしろ”真面目さ”をいまのわたしは売りにしたいと思っている。常時更新とかそういう更新頻度のレベルでの”真面目さ”では勿論ない。書くものの真面目さである。真面目なブログを目指そうと思う。そんな奇特なブログを積極的に閲覧してくださるような方は、おそらくそんなに多くないだろう。

キャラクター同士の関係性の話から、ひたすらブログ論にシフトしてしまった。個人的な意見を添えなければならない。なぜわたしはシノと津田の関係に、こんなにも惹かれるのだろうか?(あれれ、アニバタ的デジャブが……

わたしがシノから津田に向けられる想いに特別な感情を抱くことの理由の一端に、「シノが津田よりも年上である」という事実がある。

それは、単純すぎる事実である。姉さん女房とは素朴すぎる根拠である。ならばもっと素朴な話をしてみようか。わたし、お姉ちゃんが欲しかったんである。わたしは長男で、妹が一人いるのだ。つまり最もお姉ちゃんが欲しくなる環境で育ったのである。だから例えば『インフィニット・ストラトス』の織斑千冬みたいな女性に簡単に焦がれてしまうのである。しかも千冬と『IS』の主人公である一夏はきょうだいであるが、天草シノと津田タカトシはきょうだいでも何でもないのである。津田タカトシにわたしという存在を仮託して、わたしが本作を味わっているとすれば、どうして年上の異性であるシノと津田を結ぶ線に焦がれないだろうか?

ここで賢明な読者は疑問を抱くだろう。「津田とラブ・アフェアを起こす英稜高校の魚見会長も津田より年上じゃないか!」津田に自分をお姉さんとまで呼ばせる魚見会長とシノの差異はなにか? 魚見とシノを分かつ断絶はなにか?

それは、桜才学園の生徒会が最早「擬似家族」だからである。はじめてのアニメ化から4年を経て、視聴者にとってもアニメキャラにとっても桜才学園生徒会は最早「擬似家族」と化しているのである。シノと津田がきょうだいでないという当たり前の事実、2つ前の段落で述べたようなわたしがシノ⇔津田の関係性に色めく根拠の一つと相容れないようではあるけれども。

それほど桜才学園生徒会は視聴者にとってもアニメキャラにとっても馴染んでいるのだと思う。もちろんこれは経験的な主観論ではあるが。しかし貴方にも経験はないだろうか。ふとした瞬間に、アニメライフのなかで、アニメ作品のなかのコミュニティ(例えばこの場合桜才学園生徒会)が自分自身に定着したことが、つまり「馴染んだ」ことが。きっとあるとわたしは信じる。コミュニティでなくてもいい。国民的アニメキャラはアニメファンでなくても国民に定着しているだろう。キャラが視聴者に馴染むこともまた重要である。とにかく「馴染む」という現象が重要なのである。アニメは馴染む。

そして2010年の初アニメ化から4年を経て、擬似家族の「姉さん女房」として、天草シノはわたしが仮託する津田タカトシに「馴染んでいる」。すなわち、わたしが経験する、わたし個人の、そしてわたし自身の、アニメの経験に彼女は「馴染んでいる」のである。


(未完)

『生徒会役員共*』を観ながら考える その1

「最初に好きになったのは声」というフレーズが『シティーハンター2』の主題歌にはあるが、わたしが2010年に放映された『生徒会役員共』第1期に抱いた最初の印象は「声」であった。具体的には浅沼晋太郎の演技が好ましいと思ったのである。津田タカトシのツッコミに生理的な快感を覚えたのである。

言うまでもなく音声の受け取り方は感受性によるものである。生理的な快もしくは不快の感覚であり主観的なものである。たとえば音声の受け取り方をことばで普遍化し客観的なものにしようとしても、一般的な観点から言ってそういう試みは不可能であるという結論になるだろう。しかしその不可能性を超越し、映像作品における音声と感覚をめぐる問題は肥沃な議論の場を提供するのである。わたしはその肥沃さを証明するためにこういった書き物を書くことでコツコツと努力しているのかもしれない。

声や音、音楽、あるいは(これが最も重要だが)音声と音声の間、が渾然一体となって「音の置き方」なる概念を形作る。少なくともわたしはそういう認識を持っている。この認識はきっと完璧には普遍化され得ないだろう。さきほども書いたように音声一般が感受性、感覚という主観的なものに依存しているからである。だがしかしこの仮に「音の置き方」という概念をあてることができるような認識を少しでも普遍的なものに近づけようとするのは空虚な試みではないだろう。少なくともわたしはそう思っているので、声や音、音楽、音声と音声の間つまり自分流のいい方を使わせてもらえば「音の置き方」にこだわるのだ。



さて、それでは『生徒会役員共』シリーズの音の置き方の特質とは何だろうか? おそらくそれを言葉で形容したとしても、完璧に共有されることは難しいだろう。しかし、ある種”詩的”といってしまえば甘い響きではあるがその実主観的でしかない自分自身の形容、換言すれば言葉でないものを言葉で形容しようとする主観的でしかない試み、に意味が皆無であるとはいえないだろう。感覚を言葉にすることに対しくじけないことは、うん、大事だ。

生徒会役員共』シリーズの音の置き方の特質。それを特徴づけるひとつの感覚として「滑らかでない感じ」という概念をわたしはひねり出す。滑らかでないということは滑らかさの反対であるから、それを一言であらわす形容詞があるはずだが、残念ながらわたしには語彙力がない。

滑らかではないということは、別の言葉を借りて言えば、ざらざらしている・ごつごつしている、ということだ。わたしにとって、『生徒会役員共』シリーズの呼吸は、それにつきる。呼吸とは勿論アニメ自身がそういうふうに呼吸しているのだ。つまりこのアニメは滑らかに呼吸しない。健康である人がすー、はー、すー、はーとする風に呼吸しない。ぜぇぜぇハァハァという荒い呼吸。そういう呼吸は、粗く、どちらかというと心地の悪い呼吸である。

滑らか/滑らかではない、という言葉遣いと呼吸という形容がマッチしているかどうかは心もとないが、ともかく「自然でない」のである。そうだ。「非・自然」な音の置き方なのだ。非・自然なアニメ自体の呼吸、息遣いなのだ。

その滑らかでない感覚、不自然な感覚は、具体的にいえば、本作品の中核といっていい「下ネタ」が繰り出される瞬間にあらわになる。下ネタが繰り出される時、映像を観るわたしの(少なくともわたしの)感覚は映像と下ネタに対し鋭敏になる。たとえば「次はどんな下ネタを繰り出してくるのだろう」という予感。その予感が実感になる瞬間、つまりわたしが下ネタに注目する瞬間、このアニメの音の置き方は滑らかでないもの、自然でないもの、ある意味”いびつなもの”になっているのだと思う。

もちろんこの”感覚”が共有されうるとは到底思わない。それは主観的なものにとどまっている。実はこれはわたしがビジュアルを運用せずに文章だけで説明しようとしていることに起因するものである。著作権や「絵が動くことの尊厳」などお構いなしにキャプチャを多用する人なら、こういう感覚を説得することはもっと容易なのだろうけれど、わたしはそれに頑迷に抵抗している。そしてゆえに人一倍説明に難渋するようになっている。

だが、キャプチャ派なる一派が仮に在るとして、キャプチャ派には負けないぞ、書きことばでアニメをどこまでも切り取ってやるぞというわたし自身の意志は死なない。もっともこんなに決然的な言い方をしないにしても、「アニメを書きことばで切り取る」という高い理想に向かってことばを研ぎ澄まし、キャプチャ派と折り合っていけばいいだけの話ではある。

ともあれ、ひとまず、「滑らかでない」「自然ではない」「いびつである」といったことばを、『生徒会役員共』シリーズの音の置き方からひねり出せたことは収穫としよう。そうだ。もう一つつけ加えるならば、「ぎこちなさ」という5文字が『生徒会役員共』シリーズのテンポ/リズムを貫いているのではないのではないのだろうか。

「滑らかではない」「自然ではない」「いびつである」「ぎこちない」なんだかネガティブな意味の言葉遣いばかりだ。しかしこういったネガティブなモチーフが、このシリーズのポジティブな生理的感覚を形作っていることは、少なくともわたし個人としての印象では、事実なのである。わたしは『生徒会役員共』シリーズを観るとき、そこにネガティブなモチーフを見出すことで逆に快感を覚えている。つまりわたしにとって『生徒会役員共』シリーズというアニメを支配しているのは、言わばネガティブとポジティブの二律背反のようなものなのである。

(つづく)

アニメ作品と価値の尺度

まだ自分の思考もそれを言葉に落としこむことも全然練り切れていないと感じる。いったい25歳にもなって俺は何をしてきたんだろう?? がしかし自己の能力の不足を自覚することは大切だと思う。いまは積極的に思っていることを言葉にしようと努力することで一歩でも前進していこう。溜め込むよりも書いていこう。

アニプレッションに潜り込んだ時期くらいからだろうか? かなり長い期間(自分としてはそう感じている)考え続けている問題がある。それはアニメ作品における価値の問題である。もっと正確な言い方をするならば、アニメ作品「が持つ」価値の問題である。すなわち「価値のあるアニメと価値のないアニメの違いはなにか」、また「そもそもアニメに価値のある/なしは存在するのか」といったような問いを孕む問題である。

アニプレッション」のメンバーと交流してカルチャーショックだったのは、「アニメに良いも悪いもない、アニメがあればそれでおけおけおっけ〜」という考えをもっていそうな人が多かったことだ。もちろんこれにはわたしの邪推が入り込んでいる。しかし彼らには「アニメ作品を批判する」という意識がはじめからなかったのである。

「失われた何か」のおはぎさんはその代表的な人物であった。今ではアニメ作品に対し悪い感情を持つことが完全になくなったらしい。「アニプレッション」全体の空気として「アニメをたたかない」「アニメ作品に良いも悪いもない、楽しんだもの勝ち」という考え方が浸透していることは一種のおどろきであった。

わたしは元来、アニメ作品に対し良い/悪いの区別をつけるのが常であった。例えば「アクセスアップ.org」の作品データベースの評価基準には<最高><とても良い><良い><普通><悪い><とても悪い><最悪>の7段階があるが、そんな感じである。<最高>のアニメもあれば<普通>のアニメ、<最悪>のアニメもある。

作品ABCがあるとして、BはCより上だがAには劣るというA>B>C的論法を取るのがあたりまえだと信じこんできた。しかし「アニプレッション」のメンバーの多くは作品ごとに内包される価値の比較を嫌っていた。いまここで白状すれば、彼らは彼ら自身の価値基準を持つことを恐れているようにすら見えていた。何千何万と存在する全てのアニメ作品が平等であるとでもいうかのような素朴な「アニメがあればおけおけおっけ〜」的なオプティミズムに苛立ちすら覚えた。

とはいえ最近はわたしもおはぎさんのような感覚に近づいていて、アニメ作品を過度に称揚することも過度に憎悪することもやめた。光希桃さんのように絵が動いているだけで楽しめるという無我の境地を覚えるような瞬間も出てきた。もっとも光希桃さんの100分の1もわたしは作品を観ていないのだが。光希桃さんからすればミジンコみたいな視聴履歴だから、ひょっとしたらこういった価値尺度の問題で悩むのかもしれない。

それはともかくとして、アニメ作品に対する過激な賞賛と過激な罵倒はじぶんのなかで鳴りを潜めたにしても、そうであっても、「出来が悪い作品と出来が良い作品、つまらない作品と面白い作品、美しくない作品と美しい作品、ためにならない作品とためになる作品、意義のない作品と意義のある作品etc……」の違いは厳然として存在するのではないかという思いは依然としてあるのである。

かつて「アニプレッション」のメンバーに対しひそかに抱いていた憤りのように、全世界に何千何万とアニメーション映像作品が生まれ発表されてきている状況の中で、すべてのアニメーション映像作品の価値が平等であるとはわたしには思えない。むしろ作品同士に格差とでもいったものが生まれるからこそ、われわれがアニメに対しことばでアプローチすることが可能になっているという思いすら抱く。

それともわたしの前提が間違っているのだろうか。まだやはり「この中でこの作品が一番である」と視えない敵とたたかおうとわたしはしているのだろうか。だとするとわたしはただの「比べたがり」であり、そういった比べたがりは現在の少なくともインターネットファンダムにおけるアニメ論壇の風潮においては居場所がないのだろうか。

ひとはやはり真善美を追求するべきであるという気持ちが、きっとわたしは強すぎるのである。その気持ちの強さが空回りして他者との衝突を起こしたりするのである。ではあるが、「アニメに真善美は存在する」そういう言わばわたしのなかに先験的に根付いている信念が失われれば、どうしてわたしはアニメとともにこの先生きていけるであろうか?

アニメに真善美は存在する。その思いを過剰にエスカレートさせず、もっと素朴なままに素朴な思いとして提示する。自分の信念を普遍化する。さっき書いた記事の反復ではないが「中庸」のはなしである。アニメに真善美は存在するとわたしは思っていていいのだと思う。肝心なのは、アニメの真善美と価値尺度がどう隣接するのか、そもそも隣接するものなのかということであろう。

アニメの論理、アニメの倫理、アニメの美というものをひたすら求めていくわたしの態度は高尚にすぎるのかもしれない。そもそもアニメの論理、倫理、美の追究をいまのわたしが徹底できているかどうかははなはだ怪しい。多分できていない。しかし「アニメの論理、倫理、美の追究」なんていう言わば中二病めいた突飛な言葉を思いつくだけ、こういったことを長文にダラダラと書き留めるのは気休めを超えて癒やしにはなっているのかもしれないと感じる。

アニメと言語

最近はめっきり、アニメについて語るのを恐れるようになってしまった。最大の原因はわたしの語りがあまりにも否定される機会が多かったからである。もちろんなぜ否定されるのか、落ち度は完全にわたしのほうにあるのであってわたしの書いたものを否定する人が否定されるいわれはない。

そもそも、最近のわたしは以前のわたしがなぜあんなにもアニメについて語りたがっていたのかをめっきり忘却してしまっているのである。テレビアニメを一本も観ない日もぽつ、ぽつと出始めるようになったような気がする。つまり、着実にアニメへの意欲が弱まってきているのだ。アニメよりも読書や思索、詩作にふけることが確実に多くなっている。

こんなことばかり書いているとすっかり気が滅入ってくるので、もっと前向きなことを考えたいと思う。わたしは多分、人よりも調子の波というものが激しいのだ。調子というのは気分みたいなものである。躁と鬱の落差が激しいのである。もっとも今ひどく落ち込んでいるわけではないけれども、単にいまを「アニメを休む期間」だと思ってじっとしておく程度がいいのでは無いかと思う。

そうはいっても、わたしにとってアニメが何なのか、という問題についてはいずれ向き合わなければならないだろう。決してアニメというものがわたしにとって瑣末なものでないのは確実である。かといってイコール人生の目的というものでもないし、ノットイコール人生の目的というものでもない。まるでテレビアニメは厄介な隣人である。

ところで自分の思考を整理することは善い心構えであるという風潮がある。いつからそんな風潮が出来たのだろうか。古代ギリシャからだろうか。たしかにわたしも一貫した主張を持ちたいと思うことはあるし、思考にまとまりをつけたいと思うこともある。しかしわたしはこういう「論理」というえもしれぬ「神」みたいなものが支配している、「自分の考えを整理する」という「信仰」を半ばあきらめぎみなのである。

もっと自分のことばをアグレッシブにするためにはいっそのこと論理や脈絡を放棄したほうがいいのかもしれない。かといって(狂人が断罪されるいわれはないけれど)野放図に意味が分裂し、拡散し、統合を欠いたようなことばかりを書いてもいられないという予感がする。やはり自然とともに生活を営むいきものである以上最低限の倫理は保ちたいものだ。だからいまわたしは中庸というものに強く憧れている。

脱線してしまった。アニメの話であった。わたしとアニメの間の折り合いの話であった。そもそもにおいて、”わたしは何ゆえアニメを語ることにこれだけ挫折を積み重ねてきてしまったのであろう”か。わたしのアニメに対する取り組み方が至らなかったとまとめてしまえばそれで終わりであろう。だが、わたしのアニメ語りの失敗理由はもっと根源的なところに在る気がする。

これを言ってしまえばもっと身も蓋もない話になる面はあるが、「われわれ」がアニメに対する語りを挫折するのは、「アニメが言語で尽くせない」言い換えるならば「アニメがことばの論理に支配されていない」からではないだろうか。いわばアニメと言語の関係は水と油である。だってそうだろう、俺たちは文字に萌えてるわけじゃなくて絵によって描かれるキャラクターに萌えてるんだから。

ここでチョット待てよ、と一つの閃きが起こるのは必然であろう。そう、characterとは英語で文字の意味をもさしているのである。もっともcharacterとは厳密には表意文字のことであるらしい。(アルファベットは一文字で意味をあらわさないからletterかな。)意味を表す文字、具体的には漢字のような文字をcharacterはさししめしている(と、一応しておこう)。

ということは、キャラクターと文字がかならずしも可分でないのだから、アニメと言語もかならずしも可分の関係とはいえないことにならないだろうか?……まぁこういう言い方は、まさに「論理の飛躍」ではある。ただ、「アニメが言語で尽くせない」「アニメがことばの論理に支配されていない」という前提もまた独断的であることが、おぼろげながらわたしは認識できるようになってきた。

むしろ「アニメが言語で尽くせない」「アニメがことばの論理に支配されていない」という独断を抱えたことで、わたしはアニメを語ることを放棄しそうになっていたのかもしれない。がんばらないけどあきらめないということは大事である。文字が英語でcharacterであるという今回の閃きは偶発的なものであり、本質的な問題を捉えているとはいえない。ともあれひとまず、アニメを言語で捉える姿勢がわたしにとってまだ不十分だったということが確認されたということで今回はよしとしよう。

2013アニメドラフトに参加します

karimikarimiさんの記事

決意しました。
2013年度アニメドラフト会議に参加するって。

架空の放送局を作る企画です。
7年間の上京アニメ人生の総決算にしたい。
アニメオタクであり、放送オタクであるわたしの……!


1/18(土曜)21:00〜
番組へは上のリンクから

アニバタvol6 京アニ特集 に寄稿しました

詳しくはhttp://www.hyoron.org/anibata6
を御覧ください。

わたしの原稿は京アニヒロイン論です。『氷菓』の千反田える、『中二病でも恋がしたい!』の小鳥遊六花、『たまこまーけっと』の常磐みどりについて書いております。
ですが、かなり捻った書き方をしているのでテーマとギミックがわかりにくいかもしれません。
2回読みたくなる文章を書いたつもりです。

ご意見とご感想はわたしのTwitterまで。(スパムはいやいやいや〜ん)


責任編集の群馬仁さんと、代表者のたつざわさんに感謝します。

ありがとうございました!

『関口宏の東京フレンドパークⅡ』

関口宏東京フレンドパーク

TBS系で90年代前半より、月曜19時に長年に渡り放映。
往年の名作『クイズ100人に聞きました』の後枠。

5つの角度から番組を分析

「楽しさ」4/10

あまり面白くなかった。前半のゲームで振るわなかったり、ハイパーホッケーホンジャマカに圧倒されたりすると、もうパジェロしか面白みがなくなる。それこそパジェロ的中とか、100回に1回ある波乱を楽しみに眺める番組であった。

「味わい」6/10

平成の番組にもかかわらずテロップ演出を全く使わないという特色があり、オーパーツ感を醸し出していた。その泥臭さ、渋み、古臭さがわたしは好きだった。

「間口の広さ」8/10

ひと目で解るルール、構成。フランキー為谷はじめ素っ頓狂なキャラクター勢。だからこそ高視聴率を集めたのだが、反面薄味すぎる嫌いがあるのは否定できなかった。

「ハマリ度」3/10

オタクになるような番組ではありえない。気づいたら飯時に知らず知らず観ているレベルだろう。

「人材の質」5/10

関口宏(支配人)と渡辺正行(副支配人)の影が薄かったのは、最早個性か。反面ホンジャマカの仮装やフランキー為谷のパフォーマンスに観られるように脇役が突出していた印象だ。ゲストは本当にピンきりで、名前を観た瞬間消化試合ムードが感じられたりもした。


総合評価:26点(50点満点)

最もユーザーフレンドリーな番組であり、だからこそ最も視聴者の支持を集め、月曜19時の支配者となれた。
反面個人的には前半3ゲームの無味乾燥さ、司会二人の影の薄さ、だらだら観てしまう時間浪費性質などが気になっていた。しかしわたしはこの番組を長年観続けていた。