『生徒会役員共*』を観ながら考える その1

「最初に好きになったのは声」というフレーズが『シティーハンター2』の主題歌にはあるが、わたしが2010年に放映された『生徒会役員共』第1期に抱いた最初の印象は「声」であった。具体的には浅沼晋太郎の演技が好ましいと思ったのである。津田タカトシのツッコミに生理的な快感を覚えたのである。

言うまでもなく音声の受け取り方は感受性によるものである。生理的な快もしくは不快の感覚であり主観的なものである。たとえば音声の受け取り方をことばで普遍化し客観的なものにしようとしても、一般的な観点から言ってそういう試みは不可能であるという結論になるだろう。しかしその不可能性を超越し、映像作品における音声と感覚をめぐる問題は肥沃な議論の場を提供するのである。わたしはその肥沃さを証明するためにこういった書き物を書くことでコツコツと努力しているのかもしれない。

声や音、音楽、あるいは(これが最も重要だが)音声と音声の間、が渾然一体となって「音の置き方」なる概念を形作る。少なくともわたしはそういう認識を持っている。この認識はきっと完璧には普遍化され得ないだろう。さきほども書いたように音声一般が感受性、感覚という主観的なものに依存しているからである。だがしかしこの仮に「音の置き方」という概念をあてることができるような認識を少しでも普遍的なものに近づけようとするのは空虚な試みではないだろう。少なくともわたしはそう思っているので、声や音、音楽、音声と音声の間つまり自分流のいい方を使わせてもらえば「音の置き方」にこだわるのだ。



さて、それでは『生徒会役員共』シリーズの音の置き方の特質とは何だろうか? おそらくそれを言葉で形容したとしても、完璧に共有されることは難しいだろう。しかし、ある種”詩的”といってしまえば甘い響きではあるがその実主観的でしかない自分自身の形容、換言すれば言葉でないものを言葉で形容しようとする主観的でしかない試み、に意味が皆無であるとはいえないだろう。感覚を言葉にすることに対しくじけないことは、うん、大事だ。

生徒会役員共』シリーズの音の置き方の特質。それを特徴づけるひとつの感覚として「滑らかでない感じ」という概念をわたしはひねり出す。滑らかでないということは滑らかさの反対であるから、それを一言であらわす形容詞があるはずだが、残念ながらわたしには語彙力がない。

滑らかではないということは、別の言葉を借りて言えば、ざらざらしている・ごつごつしている、ということだ。わたしにとって、『生徒会役員共』シリーズの呼吸は、それにつきる。呼吸とは勿論アニメ自身がそういうふうに呼吸しているのだ。つまりこのアニメは滑らかに呼吸しない。健康である人がすー、はー、すー、はーとする風に呼吸しない。ぜぇぜぇハァハァという荒い呼吸。そういう呼吸は、粗く、どちらかというと心地の悪い呼吸である。

滑らか/滑らかではない、という言葉遣いと呼吸という形容がマッチしているかどうかは心もとないが、ともかく「自然でない」のである。そうだ。「非・自然」な音の置き方なのだ。非・自然なアニメ自体の呼吸、息遣いなのだ。

その滑らかでない感覚、不自然な感覚は、具体的にいえば、本作品の中核といっていい「下ネタ」が繰り出される瞬間にあらわになる。下ネタが繰り出される時、映像を観るわたしの(少なくともわたしの)感覚は映像と下ネタに対し鋭敏になる。たとえば「次はどんな下ネタを繰り出してくるのだろう」という予感。その予感が実感になる瞬間、つまりわたしが下ネタに注目する瞬間、このアニメの音の置き方は滑らかでないもの、自然でないもの、ある意味”いびつなもの”になっているのだと思う。

もちろんこの”感覚”が共有されうるとは到底思わない。それは主観的なものにとどまっている。実はこれはわたしがビジュアルを運用せずに文章だけで説明しようとしていることに起因するものである。著作権や「絵が動くことの尊厳」などお構いなしにキャプチャを多用する人なら、こういう感覚を説得することはもっと容易なのだろうけれど、わたしはそれに頑迷に抵抗している。そしてゆえに人一倍説明に難渋するようになっている。

だが、キャプチャ派なる一派が仮に在るとして、キャプチャ派には負けないぞ、書きことばでアニメをどこまでも切り取ってやるぞというわたし自身の意志は死なない。もっともこんなに決然的な言い方をしないにしても、「アニメを書きことばで切り取る」という高い理想に向かってことばを研ぎ澄まし、キャプチャ派と折り合っていけばいいだけの話ではある。

ともあれ、ひとまず、「滑らかでない」「自然ではない」「いびつである」といったことばを、『生徒会役員共』シリーズの音の置き方からひねり出せたことは収穫としよう。そうだ。もう一つつけ加えるならば、「ぎこちなさ」という5文字が『生徒会役員共』シリーズのテンポ/リズムを貫いているのではないのではないのだろうか。

「滑らかではない」「自然ではない」「いびつである」「ぎこちない」なんだかネガティブな意味の言葉遣いばかりだ。しかしこういったネガティブなモチーフが、このシリーズのポジティブな生理的感覚を形作っていることは、少なくともわたし個人としての印象では、事実なのである。わたしは『生徒会役員共』シリーズを観るとき、そこにネガティブなモチーフを見出すことで逆に快感を覚えている。つまりわたしにとって『生徒会役員共』シリーズというアニメを支配しているのは、言わばネガティブとポジティブの二律背反のようなものなのである。

(つづく)