アニメ作品と価値の尺度

まだ自分の思考もそれを言葉に落としこむことも全然練り切れていないと感じる。いったい25歳にもなって俺は何をしてきたんだろう?? がしかし自己の能力の不足を自覚することは大切だと思う。いまは積極的に思っていることを言葉にしようと努力することで一歩でも前進していこう。溜め込むよりも書いていこう。

アニプレッションに潜り込んだ時期くらいからだろうか? かなり長い期間(自分としてはそう感じている)考え続けている問題がある。それはアニメ作品における価値の問題である。もっと正確な言い方をするならば、アニメ作品「が持つ」価値の問題である。すなわち「価値のあるアニメと価値のないアニメの違いはなにか」、また「そもそもアニメに価値のある/なしは存在するのか」といったような問いを孕む問題である。

アニプレッション」のメンバーと交流してカルチャーショックだったのは、「アニメに良いも悪いもない、アニメがあればそれでおけおけおっけ〜」という考えをもっていそうな人が多かったことだ。もちろんこれにはわたしの邪推が入り込んでいる。しかし彼らには「アニメ作品を批判する」という意識がはじめからなかったのである。

「失われた何か」のおはぎさんはその代表的な人物であった。今ではアニメ作品に対し悪い感情を持つことが完全になくなったらしい。「アニプレッション」全体の空気として「アニメをたたかない」「アニメ作品に良いも悪いもない、楽しんだもの勝ち」という考え方が浸透していることは一種のおどろきであった。

わたしは元来、アニメ作品に対し良い/悪いの区別をつけるのが常であった。例えば「アクセスアップ.org」の作品データベースの評価基準には<最高><とても良い><良い><普通><悪い><とても悪い><最悪>の7段階があるが、そんな感じである。<最高>のアニメもあれば<普通>のアニメ、<最悪>のアニメもある。

作品ABCがあるとして、BはCより上だがAには劣るというA>B>C的論法を取るのがあたりまえだと信じこんできた。しかし「アニプレッション」のメンバーの多くは作品ごとに内包される価値の比較を嫌っていた。いまここで白状すれば、彼らは彼ら自身の価値基準を持つことを恐れているようにすら見えていた。何千何万と存在する全てのアニメ作品が平等であるとでもいうかのような素朴な「アニメがあればおけおけおっけ〜」的なオプティミズムに苛立ちすら覚えた。

とはいえ最近はわたしもおはぎさんのような感覚に近づいていて、アニメ作品を過度に称揚することも過度に憎悪することもやめた。光希桃さんのように絵が動いているだけで楽しめるという無我の境地を覚えるような瞬間も出てきた。もっとも光希桃さんの100分の1もわたしは作品を観ていないのだが。光希桃さんからすればミジンコみたいな視聴履歴だから、ひょっとしたらこういった価値尺度の問題で悩むのかもしれない。

それはともかくとして、アニメ作品に対する過激な賞賛と過激な罵倒はじぶんのなかで鳴りを潜めたにしても、そうであっても、「出来が悪い作品と出来が良い作品、つまらない作品と面白い作品、美しくない作品と美しい作品、ためにならない作品とためになる作品、意義のない作品と意義のある作品etc……」の違いは厳然として存在するのではないかという思いは依然としてあるのである。

かつて「アニプレッション」のメンバーに対しひそかに抱いていた憤りのように、全世界に何千何万とアニメーション映像作品が生まれ発表されてきている状況の中で、すべてのアニメーション映像作品の価値が平等であるとはわたしには思えない。むしろ作品同士に格差とでもいったものが生まれるからこそ、われわれがアニメに対しことばでアプローチすることが可能になっているという思いすら抱く。

それともわたしの前提が間違っているのだろうか。まだやはり「この中でこの作品が一番である」と視えない敵とたたかおうとわたしはしているのだろうか。だとするとわたしはただの「比べたがり」であり、そういった比べたがりは現在の少なくともインターネットファンダムにおけるアニメ論壇の風潮においては居場所がないのだろうか。

ひとはやはり真善美を追求するべきであるという気持ちが、きっとわたしは強すぎるのである。その気持ちの強さが空回りして他者との衝突を起こしたりするのである。ではあるが、「アニメに真善美は存在する」そういう言わばわたしのなかに先験的に根付いている信念が失われれば、どうしてわたしはアニメとともにこの先生きていけるであろうか?

アニメに真善美は存在する。その思いを過剰にエスカレートさせず、もっと素朴なままに素朴な思いとして提示する。自分の信念を普遍化する。さっき書いた記事の反復ではないが「中庸」のはなしである。アニメに真善美は存在するとわたしは思っていていいのだと思う。肝心なのは、アニメの真善美と価値尺度がどう隣接するのか、そもそも隣接するものなのかということであろう。

アニメの論理、アニメの倫理、アニメの美というものをひたすら求めていくわたしの態度は高尚にすぎるのかもしれない。そもそもアニメの論理、倫理、美の追究をいまのわたしが徹底できているかどうかははなはだ怪しい。多分できていない。しかし「アニメの論理、倫理、美の追究」なんていう言わば中二病めいた突飛な言葉を思いつくだけ、こういったことを長文にダラダラと書き留めるのは気休めを超えて癒やしにはなっているのかもしれないと感じる。