アニメと言語

最近はめっきり、アニメについて語るのを恐れるようになってしまった。最大の原因はわたしの語りがあまりにも否定される機会が多かったからである。もちろんなぜ否定されるのか、落ち度は完全にわたしのほうにあるのであってわたしの書いたものを否定する人が否定されるいわれはない。

そもそも、最近のわたしは以前のわたしがなぜあんなにもアニメについて語りたがっていたのかをめっきり忘却してしまっているのである。テレビアニメを一本も観ない日もぽつ、ぽつと出始めるようになったような気がする。つまり、着実にアニメへの意欲が弱まってきているのだ。アニメよりも読書や思索、詩作にふけることが確実に多くなっている。

こんなことばかり書いているとすっかり気が滅入ってくるので、もっと前向きなことを考えたいと思う。わたしは多分、人よりも調子の波というものが激しいのだ。調子というのは気分みたいなものである。躁と鬱の落差が激しいのである。もっとも今ひどく落ち込んでいるわけではないけれども、単にいまを「アニメを休む期間」だと思ってじっとしておく程度がいいのでは無いかと思う。

そうはいっても、わたしにとってアニメが何なのか、という問題についてはいずれ向き合わなければならないだろう。決してアニメというものがわたしにとって瑣末なものでないのは確実である。かといってイコール人生の目的というものでもないし、ノットイコール人生の目的というものでもない。まるでテレビアニメは厄介な隣人である。

ところで自分の思考を整理することは善い心構えであるという風潮がある。いつからそんな風潮が出来たのだろうか。古代ギリシャからだろうか。たしかにわたしも一貫した主張を持ちたいと思うことはあるし、思考にまとまりをつけたいと思うこともある。しかしわたしはこういう「論理」というえもしれぬ「神」みたいなものが支配している、「自分の考えを整理する」という「信仰」を半ばあきらめぎみなのである。

もっと自分のことばをアグレッシブにするためにはいっそのこと論理や脈絡を放棄したほうがいいのかもしれない。かといって(狂人が断罪されるいわれはないけれど)野放図に意味が分裂し、拡散し、統合を欠いたようなことばかりを書いてもいられないという予感がする。やはり自然とともに生活を営むいきものである以上最低限の倫理は保ちたいものだ。だからいまわたしは中庸というものに強く憧れている。

脱線してしまった。アニメの話であった。わたしとアニメの間の折り合いの話であった。そもそもにおいて、”わたしは何ゆえアニメを語ることにこれだけ挫折を積み重ねてきてしまったのであろう”か。わたしのアニメに対する取り組み方が至らなかったとまとめてしまえばそれで終わりであろう。だが、わたしのアニメ語りの失敗理由はもっと根源的なところに在る気がする。

これを言ってしまえばもっと身も蓋もない話になる面はあるが、「われわれ」がアニメに対する語りを挫折するのは、「アニメが言語で尽くせない」言い換えるならば「アニメがことばの論理に支配されていない」からではないだろうか。いわばアニメと言語の関係は水と油である。だってそうだろう、俺たちは文字に萌えてるわけじゃなくて絵によって描かれるキャラクターに萌えてるんだから。

ここでチョット待てよ、と一つの閃きが起こるのは必然であろう。そう、characterとは英語で文字の意味をもさしているのである。もっともcharacterとは厳密には表意文字のことであるらしい。(アルファベットは一文字で意味をあらわさないからletterかな。)意味を表す文字、具体的には漢字のような文字をcharacterはさししめしている(と、一応しておこう)。

ということは、キャラクターと文字がかならずしも可分でないのだから、アニメと言語もかならずしも可分の関係とはいえないことにならないだろうか?……まぁこういう言い方は、まさに「論理の飛躍」ではある。ただ、「アニメが言語で尽くせない」「アニメがことばの論理に支配されていない」という前提もまた独断的であることが、おぼろげながらわたしは認識できるようになってきた。

むしろ「アニメが言語で尽くせない」「アニメがことばの論理に支配されていない」という独断を抱えたことで、わたしはアニメを語ることを放棄しそうになっていたのかもしれない。がんばらないけどあきらめないということは大事である。文字が英語でcharacterであるという今回の閃きは偶発的なものであり、本質的な問題を捉えているとはいえない。ともあれひとまず、アニメを言語で捉える姿勢がわたしにとってまだ不十分だったということが確認されたということで今回はよしとしよう。