キャラを指し示すこと。作り手を指し示さないということ。アニメの向こう側
どこまで、アニメに距離を取るかだ。
作品世界と・・・・・・。
アニメに距離を取るほど、価値観は共有される。
だが、アニメに距離を取ればとるほど、その価値観は標準化されていくのだ。
映像にあらわれたものを素直に信じ込むこと。
多くの人が上に取る映像内容。
それは結局作画論、演出論、声優論になる。
もっと、変化球でいかないとだめだ。
たとえば今夜の『クロスゲーム』。
誰に視点をとる?
青葉か、光か、はたまた東か……。
誰でもいい。
視点を誰かキャラ一人に定めて、その視点からものごとを見るのだ。
月島青葉から世界を見ても良い。
樹多村光から世界を見ても良い。
東雄平から世界を見ても良い。
その時、アニメの映像をそのまま信じてもだめだ。
だからキャプチャはだめなのだ。
たとえば今夜の『クロスゲーム』。
星秀学園が負けた。
悔しい、青葉は悔しい。
涙を拭え、青葉の姉ちゃんの一葉がうしろから声をかけた。
だが、アニメに立ち現われている作画だけを考えたら青葉が泣いているなんて到底信じられないのだ。
アップの画面でも青葉は涙を流していない。
「星秀学園が負けたので月島青葉は泣いた」という根拠は映像のどこにもないのだ。
だがそれは作家論だ。
だがそれは、作家論にすぎないのだ。
作り手のミスを笑うか!?
作り手の泣いた青葉を映さない演出意図を括弧に入れ、一葉姉ちゃんや樹多村光の視点から青葉を見なくてはならない。
一葉は青葉の泣き顔を見た。
光もたぶん、青葉の泣き顔をバス車内で見た。
キャラクターの泣き顔が画面に映らなくても、(たとえ映す必要があって、作り手の凡ミスで映っていなくても)、たしかにキャラクターが泣いているということがあるのだ。
確信しなければだめだ。
アニメの映像をそのまま信じるな。
アニメの映像の奥にあるものを信じるんだ。
アニメの内奥、深奥にあるものをとりだすためには、作り手の「技術」なんてものに頼った文章は意味をなさない。
キャラに過剰に寄り添い、現実と同一視するのだ。
ためらってはだめだ。
現実とアニメは同じだ。