「味わう」前に「知る」 知的好奇心は絶対だ

「知る」と「味わう」、あなたはどちらが先に来ると思うだろうか? 
わたしは、知るからこそ味わえるのだ、そう思っている。

いいかえると、味わう前に知る、ということ。
知らなければ味わえない、ということ。
知った先に味わいがある、ということ。

だから、アニメにしても文学にしても音楽にしても、ただ楽しみたいという気持ちのみで接したら、逆にヤケドしやすいのだ。
何事も勉強だ。最近、わたしの口癖になってしまっている「何事も勉強」。それは創作や作り手の受け売りでは確かにある。でもわたし自身が、一生勉強だと確信をもっていて、口をすっばくして「何事も勉強だ」そう言っているのだから。

換言すれば、勉強する気概でなければ何事も身につかない。学問領域にかぎらず、テレビアニメやロックミュージックみたいな一見すると単純な娯楽に見えるテリトリーだって、そう。

わたしはロックの歴史をいちから勉強するつもりで、はっぴいえんどレッド・ツェッペリンを何度も聴いたのだ。だから味わえたのだ。だから「風をあつめて」や「胸いっぱいの愛を」の旋律がいまも耳に残り続けているのだ。すべては勉強する気でCDを聴き返していたから。
もちろんロックの歴史を勉強したいと思っていたのはわたしだけではなかった。高校の友人にもフリークはいた。彼に村八分はちみつぱいの音源を教えて貰った。

アニメに対しても、第一は知的好奇心だと思う。好奇心ではない。知的好奇心だ。そのアニメ作品を、知ってやろう、ということ。
ちょうど3年前、『鋼の錬金術師』の最初のアニメを、バンダイチャンネルで1週間かけて全部観た。なぜか。このアニメが原作や社会に向けて何を指差しているのかについて、知りたかったからだ。内容に対する、知的好奇心。
ハガレンの視聴体験は、たいそう濃密だった。知ろうとする意志が第一にあったから、映像を演出を味わえた。そう確信している。
もし単純に作画の快感に浸ろうとかいう、わたしにとっては「不純な動機」でハガレンを見始めたとしたら、とても最後までたどり着かなかったろう。内容を知ろうとしたから全うできた。

勉強しようとする意欲が好循環を生む。知的好奇心が、意志の原動力になり、やがては鑑賞力を鍛えるのだ。