自我とアニメ

アニプレッション』にいた頃、わたしはずいぶんけったいな文章を書いていて、ときどき炎上したり、はてブでけなされたり、ずいぶんあのコミュニティには迷惑をかけたものだ。ただ、記事を上げていくごとに、『アニプレッション』ブログでの閲覧数は増加していったような気がする。

アニプレッション』にいた頃、わたしはブログだったり同人誌だったりで、ずいぶん下手な言葉遣いをしていたものだ。記事を見返したら、顔から火が出るだろう。それぐらいあの頃の自分は青かった。ただ、あの頃自分が何をやろうとしていたのか、今頃になって気づいてきた。

つまり、わたしは『アニプレッション』で拙い文章を書くことで、アニメファンに「主体的自覚」を促したかったのだと思う。その試みは、わたしの表現力の不足により失敗を繰り返した。そしてこれからもわたしは人生の失敗を繰り返すことだろう、と思うが、ひとまずまだ青二才だった頃の自分が求めていたのは「主体的自覚」だったことに気づけた。それは、アニメという現象に対する自覚であり、アニメファンとしての有り様に対する自己の自覚である。

アニプレッション』にいた頃のわたしは、ろくでなし以下のろくでなしで、アニメファンを見下し、一方的に「目的意識を持つアニメファンであること」を要求していた。つまり他人には自覚を促しているのに、自分自身に自覚がなかったのである。だから文章・文体は乱れ、アニメを切り取る言葉はあさましいもののままになっていた。

今の自分の言葉が、あさましいままであるかどうか、今の自分が少しは成長しているかどうかは「外部」にゆだねるとして、以前よりは「主体的自覚」というものに「自覚的」になれたかなあ、と思う。たぶん、かつての自分、『アニプレッション』にいた頃の自分は、「主体的自覚」なんていう概念すら思ってもみなかったのだと思う。しかし、人は反省する生き物である。あれから自分も、いろいろな事を考えた。そして、決定的だったのは、自己をめぐる環境が変わり始めたことだった。

アニプレッション』にいた時期は、大学の4年生から6年生の期間なのだが、奇妙なことに、大学にいた頃よりも、大学を出た今のほうが全然勉強しているのである。『アニプレッション』を追い出されてから、なぜだか哲学書を読み始めた。自分が哲学に凝りだした理由は、やはり人間関係のイザコザによって激しく自我を揺さぶられたからだと思う(あの時、何人の人間と絶交したことだろう)。ただ、あの時傷つきすぎるくらい傷ついたことには、自分を見つめ直し、自我を洗い直す上で、マイナスなだけではなくプラスの面も間違いなくあったのだと思う。

いまのわたしは、アニメファンに主体的自覚を「強要」するつもりはない。ただ、時折文章めいたものを書くことで「要求」はしていくのかなあ、と思っている。それではアニメという現象に対する自覚、アニメファンとしての有り様に対する自覚とはなんだろうか? それを全て言葉にあらわすとなると、ひょっとしたらwebの外に出て行くしか無いかもしれない。機会は自分で見つけるものである。機会というものも、たぶん、「主体的自覚」がなければ見つけられない。わたしの中の「主体的自覚」が確固たるものになればなるほど、機会も自分に近づいてくるのだろう、きっと。