『宮河家の空腹』はじめの10秒間〜山本寛監督の演出手腕についての戯言〜

アニメ『宮河家の空腹』の初っ端10秒間から、とりわけ「安定感」「安心感」を醸し出すという点で、山本寛監督は恐るべき演出手腕を発揮している。

心地よい冒頭3秒

『宮河家の空腹』最初のネタの冒頭。
すなわち、アニメ本編の出だし。
まず約3秒、宮河家(主人公姉妹が住む部屋)があるアパートの外観を見せられる。
正確には、アパートの外観の一部を、止め絵で見せられるのである。
挿入される音は小鳥の鳴き声のみ。どうやら朝のようだ。
いきなり「劇伴音楽」でけたたましく始まらず、派手なアクション描写からも始まらない。
小鳥の鳴き声SEと、ラフな止め絵のみで状況を示している。
それが心地よい。

並び/順番/主人公がだれか

続いて「宮河ひかげ―宮河ひなた」の並びで視聴者と姉妹が対面する。
ひなた(姉)のほうがひかげ(妹)よりも画面に比したサイズが大きい。
しかし、わたしの眼に入ったのはひかげのほうが早かった。
なぜか? なぜ画面比サイズでひかげはひなたより小さかったのに、先にひかげが眼に入ったのか?
普通、女きょうだいの順序は姉→妹(”姉妹”という言葉の順序自体がそうだ)となるのに、ここでは妹のひかげが姉のひなたの右に座している。
普通妹が目上の人間(ひなた)の右に出るだろうか!?
姉→妹とという順番が、このカットの並びでは乱れている。
だからサイズの大小云々の問題じゃなく、順番乱れのショックで、順番を乱したひかげが”真っ先”にわたしの眼に入ってきたのではないか!?
(ついでにいうと横書きの場合”姉妹”という表記になり、姉→妹という並びが自然。でも「妹→姉」の並びになっている。だが、シリーズタイトル『宮河家の空腹』は縦書。これは五分五分。)

重要なのは、わたしの目に真っ先に入ってきたキャラクター、つまり宮河ひかげが、映像が進むごとに主人公の色を強めていくということだ。
つまり、主人公はこの女の子(=ひかげ)ですよ、ということを示す意味で、ひなたよりも先にひかげが目に入り込みやすい、この構図(ひかげ―ひなた)を採用するのが妥当ということだろう。
いずれにせよ順番と並びを乱した構図が効いており、無理なくキャラを呑み込んでいけるのだ。

バンクシステムが安心感を与える

妹と姉が目に入ったと同時に聞こえるのが、ステーキの焼ける音。
まさか、ひかげ―ひなたが画面か何かを観ているのにグリルで肉をジュウジュウ焼いているなんて考える人はいないだろう。
これはテレビ画面から聞こえるステーキの焼ける音。
そして3万円という異常な値段のステーキを映すテレビ画面を見せられたあと、われわれの目に、もう一度、同じ絵のひかげ―ひなたが映りこむ。
同じ絵というのは、テレビ画面がステーキの映像を映すカットの直前のひかげ―ひなたの絵とまったく同じ絵ということ。
つまり悪く言えば使い回し、良く言えばワンカット挟んでの「再利用」だ。
肝心なのは下手に構図を変えるよりBANKで使い回したほうが視聴者に安心感を与えるということ。
この画面切り替え、

「ひかげひなた→ステーキを映す画面→ひかげひなた(再)」
という手法も安心感を与えるという意味において正しいであろう。

10秒のマジック byヤマカン

ここまで10秒しか経過していない。
劇伴音楽はいっさい使われていない。無音にSEがかぶさるのみ。
目立ったアニメーション上の動きは、ひなたの”目パチ”ぐらい。
つまり、音にも映像にも動きはまったくないと言っていい。
しかし、映像は恐ろしく安定している。
動きがないからこそ心地よい。
もちろん原作の内容や脚本のニュアンスといった要素も噛みあう。
だけど、恐ろしく安定した山本寛監督の演出が、たった10秒で視聴者に安心感を与え、肩肘張らないように作品世界に入り込めるよう誘導しているという事実をわたしは上にとりたい。
たった10秒で意味をこれだけ凝縮させ、たった10秒でこれだけの文章をわたしに書かせるアニメ演出家は一握りだ。