アニメを語る上でやらないほうがいいこと

今回は、アニメの感想や考察記事を書こうとする上で、やってはいけないとわたしが考えている3つのことについて書いた。各項目の関連性とか連結性は、あまりない。

過去の作品とすりあわせる

いま観ている作品を、過去に観た作品とすりあわせてしまうチョンボは、よくする。「これは○○系」、「まるで△△同然」……そこに生産性は、ない。思い込みにも似た自分の過去の印象のみを、いま眼の前に有る作品に都合よく符合させるようなチョンボは、できるだけこの先はしたくないのである。
だから、いま放送されているアニメを、過去のアニメと重ねあわせて語るというような「勇み足」は、したくない。できるだけそういった性急なやり方を封印して感想、考察、批評を書いていきたい。
ストーリーを、キャラを、型にはめてはいけないのだ。

さて、それならば現行のアニメをどういった手口で語ればよいのだろう。
過去の作品群の類型にはめ合わせるのではなく、「自分自身に引きつけて語る」という手口はどうだろうか。作品と作品を結びつけるのではなく、作品とおのれ自身を結びつけようとする。それは出発点からして根本的に異なる。
すなわち、テーマ、ストーリー、キャラクターを、最も身近な人間たる「わたし」に引きつけて語るという手口だ。
当然、解釈は千差万別、人によって異なる色を見せるだろうが、客観的に書いても仕方ないとここで開き直る。主観的に書こう。どうせ客観的に書こうとしても詰まらなくなるから。
自分の解釈でアニメ作品をみて、離れた距離から作品を語るのではなく、むしろ過剰なまでに密着して作品を語るのだ。
それがブログなのだ。

それは、むしろ作品を解釈するのではないのかもしれない。テレビ画面という鏡に映った自分を解釈しているのかもしれない。それがたぶん、感情移入しているということ。

キャラを「点」でとらえる

1人芝居のアニメは少ないのであり、キャラに注目してアニメを観ること自体は賢明な選択だとしても、1人のキャラだけに着目する、すなわちキャラを「点」としてとらえるやり方は得策ではない。2人以上のキャラから作品は構成され、2人以上の関係性から、キャラクター性は成り立つ。
つまり、2つ以上「点」があるということは、「点」と「点」を「線」で結び付けられるということなのである。キャラクターは点と点を結びつける線でとらえられなければならない。
たとえば『スクライド』と『コードギアス』、どちらも谷口悟朗監督の作品だが、2人の対照的な男性主人公が出てくる。「カズマ」と「劉鳳」。「ルルーシュ」と「枢木スザク」。2人のうち1人だけではストーリーは動かない。カズマと劉鳳の衝突、ルルーシュとスザクの衝突からストーリーは駆動していく。その、カズマ⇔劉鳳/ルルーシュ⇔スザクを結ぶ線について語るのは、何よりカズマ、劉鳳、ルルーシュ、スザクを別々に語るよりも、単純に面白いのだ。

一歩引いた目で、ストーリーを解釈したり、テーマを把握しようとする

少しアニメに慣れると、距離をとりたがる。一歩引いた目で作品をとらえようとする。全体が気になる。そこから卒業しよう。
大げさな言い方をすると、俯瞰的な目からストーリーを解釈し、全体の構成を考えたり、テーマを把握し、作品の全体像をつかんでみようとするのは、かえってアニメを観ているのではないのである。アニメ視聴という行為が、感想、考察、批評に隷属されている。
何よりも、アニメを楽しむことだ。
アニメと一体化するように観る。アニメという現象と一体化するように。距離をとるよりも密着する。アニメににじり寄る。全体も細部もない。同化してしまえば、全体も、細部も、ないのだ。
アニメを真の意味で、経験するということ。その、陶酔するかのような快さを、はやく皆にも体感してほしい。
そうすれば、貴方は、テレビ画面の向こう側にすら行ける。キャラクターと友達になれる。