話数単位で選ぶ、2014年TVアニメ10選

はじめに

誰にも、その人固有の、それぞれの暮らしがある。人それぞれの暮らしのなかで、誰もが、その暮らしを圧迫しない範囲で、アニメを楽しめばいいのだと思う。その人にとっての、アニメ視聴の適正量が、あるいは60番組であるかもしれないし、あるいは3番組であるのかもしれない。60番組観なきゃ気が済まない人。3番組で良しとする人。どちらのタイプの人がいてもOKなのだと思う。自分が無理をしない範囲で、アニメを楽しむ。過不足のないアニメライフ。アニメが好きな人は、過不足のないアニメライフを目指すべきだと思う。

今年、ちょっとアニメで無理をしてしまった人、あまりアニメを頑張れなかった人、様々にいることかと思う。そういったアニメ好きたちの、アニメライフの決算が、話数単位◯◯選として結実する。べつに、無理をして10本を選ばなくてもいいんだと思う。5本でもいい。3本でもいい。1本でもいい。それぞれのアニメ好きに、それぞれの暮らしがある。そういう、アニメという枠を超えた「暮らし」ぶりまで、TVアニメという、現代の生活に食い込んでいるフィルターを通して、透けてくる。何話か選ぶことで、選んだその人自身の、「わたしの暮らしの時間」であったり、「わたしがわたしであること」であったり、「わたしがわたしになりきれなかったこと」であったり、「わたしがわたしになりきれたこと」であったり、あるいは素朴な「わたしの思い」が、聞こえてくる。

耳をすませば、多声的な、パブリックな部分だけではなく、プライベートな部分を染み込ませた、それぞれのアニメ好きの、夜明けの歌が聞こえてくる。そう。日本固有の、大つごもりのベートーヴェン交響曲第9番』の合唱みたいに。2015年の夜明けの歌が、アニメブログというスピーカーを通して、ネットの街路に鳴り響く。


そういった企画を、前提から疑い、「馴れ合い」とみなし、退出していく聡明な青年。『白蛇伝』から現在に至るあらゆるアニメに10代にして通暁し、どこのTSUTAYAにも置いていないようなマイナーOVAにも通暁し、もはや「あらゆるアニメの中から、比べて、選ぶ」という行為にうんざりしている、達観した少年。そういった存在が、仮にいるかもしれない。彼らは、こういった企画という円の外にいる。わたしは彼らの人格を否定しない。むしろ、「馴れ合い」と喝破し出て行く青年や、「比べる」「選ぶ」という段階を通り過ぎた早熟な少年は、主体的であり、自立的であり、実存的である。彼らはアニメファンの頽落を見逃さない。低い位置での暮らしに安住しない。むしろ、こういった企画という球体の汚れを取り払い、こういった企画という合唱曲に紛れ込むノイズを取り払ってくれる。

わたしの10選

プリティーリズム・レインボーライブ 第45回「薔薇の革命」

アイカツ! 第95回「夢の咲く場所」

ご注文はうさぎですか? 第10回「対お姉ちゃん用決戦部隊、通称チマメ隊

いなり、こんこん、恋いろは。 第3回「兄じゃ、五月蠅い、過剰愛。」

グラスリップ 第4回「坂道」

東京レイヴンズ 第16回「_DARKNESS_EMERGE_ -神扇-」

マンガ家さんとアシスタントさんと 第9回「過去の過ち」

デンキ街の本屋さん 第6回「宿はなし」

異能バトルは日常系のなかで 第11回「存在 キューピッドエラー」

ヒーローバンク 第26回「決着¥最初で最後の大ゲンカ!!」

アイカツ! #95

ここに2本の車軸がある。TVアニメという車を動かすための車軸が。その2本の車軸とは、『プリティーリズム』であり、『アイカツ!』である。事実上そうなっていると、わたしはもはや決め込んでしまっている。それくらいこの2本のアニメの存在は、大きい。ほんらいタカラトミーバンダイナムコという競いあう間柄のメーカーに支えられたアニメ番組なのだが、むしろこの2本のアニメ同士は、折り合っている。折り合って、危ういバランスのまま突っ走るいまのアニメを支えている。

とりわけ2014年3月まで放映されていた『プリティーリズム・レインボーライブ』の「脚本力」は、せせこましい深夜アニメを一掃してしまうくらいの力があった。4クール。51話。実写パートのおかげで引き締まった放映時間。濃く、うねりのある流れの脚本・構成だったと思う。

2014年に放映されたなかで1本選ぶとしたら、第45回の「薔薇の革命」だとわたしは思う。
エーデルローズの独裁者・法月仁。プリズムショー協会の頂に登る者・氷室聖。そしてプリズムストーンを脇で支える「DJ COO」という、しがない存在であり、異様な存在。仁・聖・COO、この「大人」3者に加え、速水ヒロという虚飾にまみれた少年アイドルが、この回の、物語のうねりを、創りだす。
法月仁の罠により、氷室聖はプリズムショー協会から引きずり降ろされる。それどころの事態ではない。プリズムショー全体が機能不全に陥っているのだ。エーデルローズどころか、プリズムショーの世界まで腐敗しかかっている。その状況を打破しようと、虚飾にまみれていた速水ヒロが動き出す。
ステージ上で、ヒロは自らの虚飾を剥ぎ取る。ヒロの誠実さに、仁の悪意は動揺をきたす。聖とヒロへの仁の悪意はいよいよ狂気と化し、彩瀬なるや蓮城寺べるも含めたプリズムショーに関わる人間をホロコーストに向かわせようとするが、楽屋裏で仁に対してDJ COOが意外な役割を果たす。

DJ COOに関するどんでん返しは、見事だった。わたしは森久保祥太郎含めDJ COOという名脇役がいなかったらこのアニメは成り立たなかったと思っている。しかしもう一方で、法月仁という存在がいなかったらこのアニメは立ち行かなくなっていただろうな、という思いを捨てきれない。それほどまでに法月仁は名悪役だったとわたしは思うのだ。とくに三木眞一郎の演技の迫力がすごかった。おそらく悪役を演らせたほうが輝きが際立つ演者なのだろう。「たかが女児向けアニメ」という軽蔑・やる気の無さを一切感じさせないミキシンの演技は鬼迫に満ちていたし、それも含めわたしは法月仁という悪役が捨てがたいのだ。第46回以降、仁は最終回にしか顔を出さない。しかし仁の物語は続いていく。最終回はそんなふうなことも示唆していたと思う。法月仁は背後に物語を強烈に感じさせる名悪役だった。

もちろんこのアニメの主役は女の子である。彩瀬なる、福原あん、涼野いと、蓮城寺べる、森園わかな、小鳥遊おとは、この6人に加え、りんねとジュネを含めたヒロインズ。しかし、わたしはわたし自身が男であることを否定できないのであって、ヒロ、コウジ、カズキ、仁、聖、COO、それにいとやわかなのお父さんも含めた男性キャラにどうしても寄り添ってしまうのだ。

男キャラにもそれぞれ見せ場はあるが、仁・聖・COOの三角形にヒロが絡みつく第45回が、男キャラが単なる添え物でないという作品の意志を強く感じさせて、好ましく思った。4クール目、ひいてはシリーズ全体のターニングポイントとなる回だったと思う。『カレイドスター』にしても何にしても、男が引き立て役だと思っていたら大間違いだ。


アイカツ!』について。
わたしは『アイカツ!』を観ない時期があった。なぜかというと、木曜18時からテレ玉で『カレイドスター』の再放送が放映されており、その真裏に『アイカツ!』が枠移動してしまったからだ。何事においても『カレイドスター』を優先させてしまうわたしは、『カレイドスター』の再放送の期間、放送を録画することだけに集中していた。「『カレイドスター』を観るために東京に残ります」と親に言った。当然呆れられた。ともかく『カレイドスター』が木曜18時の枠で再放送されていた期間は、『アイカツ!』を観なかった。
そしてアニメ史上最高の達成『カレイドスター』の再放送が終わり、ふたたびわたしは夕方枠に移ってきた『アイカツ!』を観るようになった。そしたら「ドリアカ」というもうひとつのアイドル養成学園が出来ており、音城セイラという星宮いちごと対になる立場のキャラだったり、きい、そら、マリアといった新キャラが続々出て来た。そう、「KIRA☆Power」が主題歌の時期である。大空あかりという未来の主人公も登場し、帰国したいちごの立場はかなり変わっていた。まぁテコ入れというやつだろうが、とくにドリアカ勢に視点を合わせると、帰国したいちごの立場はガラリと変わって見えた。

「ドリアカ」が進撃するという展開は、たしかに異物混入みたいな事態だったかもしれない。思えば『カレイドスター』にメイとレオンが出て来た時、ずいぶん論争になったものだ。「ドリアカ」がメイやレオンのような憎まれ役でなかったのが救いだが。
わたしはこの「ドリアカ」という存在、セイラ、きい、そら(苗木野じゃないほうの)、といった面々が、どうも捨てきれないのだ。それはたぶん、この「ドリアカ」が出張っていた時期に、『アイカツ!』に本格的に馴染んでいったからだろう。わたしにとっては、「KIRA☆Power」が主題歌の時期から、この番組に深入りするようになっていった。そしていつの間にか、毎週録画予約をするようになっていた。

とりわけわたしはこの「ドリアカ」の持ち歌である「ハッピィクレッシェンド」という曲が好きでねぇ……『アイカツ!』の挿入歌は、驚異的にクオリティが高いが、わたしがお気に入りの曲はこの「ハッピィクレッシェンド」だ。とくに、間奏の部分の「音」が好きだ。それはアニメ映像込みでの印象ではあるけれども。

そんな、「ハッピィクレッシェンド」が、現時点で最後に歌われた第95回を、わたしは『アイカツ!』のなかからは選びました。脚本では選ばなかった。『プリティーリズム・レインボーライブ』と比して、『アイカツ!』はわざと脚本・構成の濃厚さやうねりを抑えこんでいる感じがする。そこも『アイカツ!』の個性なのだが、『プリティーリズム・レインボーライブ』と比べ、『アイカツ!』のわたしの印象は、楽曲に比重が置かれている。

ドリアカサイドの集大成であり、神曲「ハッピィクレッシェンド」をみんなで歌って踊った第95回が、わたしの今年ベストの『アイカツ!』だった。

ご注文はうさぎですか? #10

ごちうさ』は、毎週リアルタイムで楽しみだったアニメだった。まず主題歌が屈指の名曲だった。木曜夜の30分間、幸せな気分でいられるアニメだった。何も主張しないことで、陶然とした気分にさせてくれた。そんな2014年4月期最良の作品『ごちうさ』でいちばん見返したのは、この第10回だ。

勉強合宿で、千夜の家にココアが泊まりに行ってしまう。反対にラビットハウスには、マヤとメグが泊まりに来る。おおむね、チノ・マヤ・メグ・リゼに青山ブルーマウンテンも絡んだ面々と、勉強合宿するココア・千夜・シャロという2つの集団の描写が分けて語られる。

この回でわたしが注目し、やみつきになったのは、Bパート明けから始まる温水プールの場面だ。街で評判となっている温水プールに、チノ・マヤ・メグ・リゼが向かう。温水プールで遊ぶチマメ隊たち。そこになぜかリゼを凌駕するスタイルの青山ブルーマウンテンがいた。ブルーマウンテンも含め水鉄砲で遊ぶチノ・マヤ・メグ・リゼ。そんな本当に他愛もない描写で、このアニメ自体がそもそも他愛もないものなのだが、ここでわたしが注目しやみつきになったのは「水」の表現だ。

チマメ隊とリゼは、夕方からプールに向かい、やがて夜を迎える。その雰囲気の造形にも妥協がなかったのだが、それ以上にわたしが注目しやみつきなのは、プールの「水」が醸し出す癒しだ。水の表現というより、「温水」の表現、といったほうが適切かもしれない。小さいころ遊んだ温水プールの温水の感覚が蘇ってくる、体内に沸き上がってくるかのような……『ごちうさ』第10回の温水プールの表現は、身体的なものだ。この描写から、温水プールの温水の肌触りを感じる。温水プールに入るチマメ隊たちと、画面の前のわたしたちが温水プールを共有している感覚。その根拠をあぶり出すのは難しい。癒しの感覚を言葉で説明してもしきれない。ただ、温水プールの場面のあとで、ココアとシャロの入浴シーンが出て来たのは偶然ではないと思う。

いなり、こんこん、恋いろは。 #3

アニメを肌で感じるとは、不思議な体験だ。なぜ平面でしかないようなもの、その上で永遠に触れられないアニメーションという表現を、肌で感じられるのか。『ごちうさ』では、温水プールの描写が肌で感じられた。『いなこん』では、OPテーマの貢献も絶大なのだが、『ごちうさ』と違った意味で、「場所」を肌で感じられるアニメだ。「場所」とは、もちろん京都。例えば、ロックバンドのくるりが「ファンデリア」「さよならストレンジャー」といった初期のアルバムで奏でていた楽曲から感じられる、京都の空気感。そんなようなものだ。わたしが京都をなんども歩いて身体で覚えているということも大きいのだが、そんな身体性を超越した理由があるように思う。京都という場所を、このアニメを通して肌で感じられる理由が……

方言? 声優? 背景美術? 再現性? いや、1つのファクターに収斂されないような、「場所」性とでもいったものが、このアニメに充満しているのだ。それをキャプチャ画像を使わず文字だけで説明するのは、たいへん難しい。でも、イメージを文字にしようと努力すること、それ自体に価値があると思うのだ。それでは『いなこん』が孕む「場所性」とはなにか? 残念ながら、その問への回答をいまだわたしは用意出来ていない。

ただ、わたしは、保坂和志という小説家が『書きあぐねている人のための小説入門』でいっていた、「創作に『地方』を持ち込むのもひとつの方法」だ、ということをここで思い出す。単なるひとつの方法というよりも、標準語で話す世界よりも「ローカル性」みたいなものを創作に持ち込んだほうがベターだよ、と保坂和志はいっていた気がする。
創作にローカルを持ち込んだほうがベターだという保坂和志のことばから、わたしは一歩踏み込みたいと思う。つまり、単に創作に田舎を持ち込んでもだめなのである。『true tears』以降、雨後の筍のように「地方を舞台にしたアニメ」という11文字でひとくくりにされるような作品群が続発した。しかし、あったはずだ、「単に創作に田舎を持ち込んだだけ」のアニメも。単に地方を持ち込んでローカル性を醸し出そうとしても甲斐がない。大事なのは「如何に地方をアニメに持ち込んだか」だ。『花咲くいろは』『たまゆら』『夏色キセキ』こういったアニメは、割りとうまくいっていた。スタッフの技量のおかげだと思うが、この『いなこん』という作品も、高橋亨という監督のアニメへの地方の持ち込み方が巧かったのかもしれない。

第3回は、主人公である伏見いなりの兄と、ヒロインのうか様の関係性の進展がメインとなる。いなり兄の視点から観ても、うか様の視点から観ても面白いのだが、ここでわたしがもっとも注目したいのは、このアニメ作品の異様とも言える「軽さ」だ。人物のデフォルメ。コミカルなSE。はっきり言って、音の置き方は、軽い。このギャグアニメ一歩手前のコメディーとしての「軽さ」が炸裂した第3回がお気に入りで、録画を観返した。笑いどころも多い。うか様の2次元への傾倒ぶりなんか、ほんとうに面白い。

グラスリップ #4

アニメ作品には分水嶺がある。ギリギリのバランスで、アニメ作品は保たれており、ひとたび決壊すれば凄惨さを招く。その決壊ギリギリの領域にまで時に踏み込むのが、西村純二という監督であり、西村ジュンジという脚本家なのだ。
アニメの理解にも分水嶺がある。決壊すれば、アニメに対する味覚が荒れる。西村ジュンジが脚本を担当したこの回は、アニメに対する味覚の質をわたしたちが試されているかのような回だった。ついつい「これがジュンジ脚本の真骨頂。理解できない奴は頭が悪い、感性がない」というような物言いを、この第4回に対してはしてしまうのだが、そういう失敗を過去に繰り返したわたしは、冷静に中立の立場になる。ジュンジ脚本を土台に出来上がった映像を思い返し、直観する。

グラスリップ』は統一性が映像から見えてこないアニメなんだろう。分裂症的アニメ、と名づけてしまっていいんだと思う。それにしても第4回は特に音の置き方が『true tears』に似ていた。分裂症的な混沌を突き詰めれば、こういったアニメ脚本の極北とでもいったものになってしまう。この回を観たほとんどの人間が理解できなかった。わたしは「ああ、こういう攻め手で来るのね」と思ったけど。あと、『true tears』では岡田麿里だけでなく西村ジュンジも脚本面を支えていたのだなあ、と思った。
それにしても、「純文学アニメ」という6文字ではすまされないよ、このアニメ。『グラスリップ』はいまだに居心地が悪いアニメだ。それはたぶん、『グラスリップ』がスキゾチック、いや「スキゾアニメ」の6文字だからだ。難攻不落だ………

東京レイヴンズ #16

よく出来たアニメだと思う。ただ、「これ、よく出来てるなあ」と思った作品でも、世間と自分の評価のギャップがあったりする。『東京レイヴンズ』は、あまり「よく出来てるなあ」という印象を持たれなかったアニメ。だからこそ、この作品を繁みの中から拾いあげたい! という思いが強くなる。

では、どこが「よく出来てるなあ」と思ったのか? 例えば、選出した第16回後半のバトルシーン。カメラがぐるぐる回って、CGメカの重厚感はもとより、映像技術的にも価値が高いものになっていた。こうした、映像として「よく出来てるなあ」と思うことが、『東京レイヴンズ』は多かった。終盤に向けてうねりが高まっていく脚本・構成含め、ほんとうに『東京レイヴンズ』は「よく出来てるなあ」と唸ることが多かった。

ただ、「よく出来てるなあ、と思った」「よく出来てるなあ、と唸った」だけでは、単なる感想にすらならないだろう。例えばキャプチャ系ブログならば、先述の第16回のバトルシーンの「めまぐるしく回る感じ」を示すことができるだろう。しかし、わたしはキャプチャに頼ってはいけない。でも、キャプチャの代わりになるような映像を切り取る言語を、まだ持てていない。何故か? 努力が足りないからだ。なのでこのブログ、新年度からは少し違ったスタイルの記事を書いて、努力を積み重ねていく所存。

デンキ街の本屋さん #6

似たような内容のエピソードが、異なる2つの作品で観られた。「出来上がった原稿にインクをこぼしてしまって……」というよくある類型のエピソードなのだが、印象に残ったので選んでみた。

まず『マンアシ』。愛徒勇気の担当編集者であるみはりの回想という形のエピソードだったと思う。まだ足須さんが愛徒勇気の仕事場に来る前の話だ。原稿の締め切りがせまっている。必死で原稿を書く愛徒。しかし新米編集者だったみはりが、はずみで原稿にインクをこぼしてしまう。それでも愛徒はあきらめない。男気を見せる。ドリンク剤を大量に注入して朝まで原稿を仕上げたのだ。
まず愛徒勇気のプロ意識がすごい。普段は最低の性格の変態バカなのに、仕事に対する覚悟は、某マンガ家も見習ってほしいくらいで……ゴホンゴホン。わたしも切羽詰まった時は、エナジードリンクの類をよく飲む。ドリンク剤を死ぬほど注入してまで原稿に、自分の仕事に打ち込む彼の姿には感じ入るものがあった。
もちろんみはりちゃんというキャラの魅力も大きい。まずスーツスタイルの女編集者という造型がいいし、愛徒勇気に惚れているという設定も萌える。早見沙織には悪いが、この作品に限っては、能登有沙が演じる音砂みはりに一本取られた印象だ。


そして『デンキ街』第6回の「宿はなし」。先生の原稿の締め切りがせまっている。みんなしてどうにか先生の原稿を完成させるが、はずみでインクをこぼし先生の原稿をだめにしてしまう。赤ちゃん化する先生をどうにか海くんたちが制御し、徹夜でどうにか仕上げた。

じつは『デンキ街の本屋さん』の第1回を観た時、「来たな!」という手応えを感じてしまったのだ。前年の『げんしけん二代目』からの流れで、オタクの生態を活写した作品を求めていた。しかも『デンキ街の本屋さん』という作品は、どうやらオタク文化を「生業」としている人間自体を描こうとしているらしいのだ。これは一本取られた、と思った。しかしギャグ路線とラブコメディ路線に、番組は激しくシフトしていった。

そんな中で、オタク文化を「仕事」としてありのままに抽出できているな、と思ったのが、この、先生の原稿をうまのほねの面々がみんなして手伝う回だ。

この1年、将来のあてもないまま、「仕事」ってなんだろう……とずっと考え続けていた。「社会」や「労働」なんていう、ちっぽけな概念が霞んでしまう、「仕事」という人間の根源に入り込んでいる概念をずっといまも考え続けている。ひとびとはつい、「仕事」という人間の根源のただなかにある概念を見落としたまま、眼の前の「労働」や「社会」に振り回されてしまう。

異能バトルは日常系のなかで #11

急転直下。じつは『異能バトル』第11回を観るまで、9本目に紹介するのは『ガールフレンド(仮)』の第9回にする予定だった。どちらも早見沙織が主軸となる回である。今年も早見沙織は、アニメファンを1年中突き動かした。

早見沙織。おそらく今まででわたしを最高に熱くさせた声優です。」

ウン十年後になにか声優やアニメについて文章をわたしが書くとして、こんな物言いを思わずしてしまうかもしれない。いや、きっとするはずだ。そんな早見沙織は大きな存在の声優だ。「最高に熱くさせた」というのは、「最高の声優」という意味ではない。たとえば沢城みゆきは、演技でわたしを最高にゾクゾクさせてくれた。

そんな早見が『異能バトル』で演じたのは、主人公・安藤の幼馴染である鳩子。夏休みになり、安藤姉弟と鳩子が、海水浴に出かける。「セブンティーン」のようなJK雑誌を読み込み、鳩子は安藤に接近しようとする。実は直前に、鳩子はもうひとりの核となるヒロイン・灯代に「宣戦布告」している。その精算は、結局シリーズ内ではつかないままだったのだが。
JK向け雑誌に載っていた水着をそのまま着たり、日焼け止めクリームを安藤に塗ってもらおうとしたり、鳩子は安藤にモーションをかける。素朴な話だ。しかし描写に映像的な、アニメ的な面白さがあった。映像に取り組む腕の違いが、『異能バトル』と『GF(仮)』を分けた。

わたしが10月期で映像的に面白いと思っているアニメは、『異能バトルは日常系のなかで』と『大図書館の羊飼い』だ。『蟲師』の映像がいい? そんなことはわかりきっている。『異能バトル』と『大図書館』、両者ともにマンガ的な想像力に支えられたユーモラスな画面づくりが印象に残った。

『異能バトル』の11話のコンテは、望月智充。鳩子が主軸となる回では、7話も担当していた。望月智充のわたしとの絆が、また深まってしまった気がする。もちろんアニメーター陣の健闘も大きいだろう。

ヒーローバンク #26

事実上の第1期最終回。
敵に洗脳された親友のナガレを、カイトたちは救おうとする。その最終決戦。「小学生なめんな!」見事カイトたちは敵に打ち勝ち、ナガレを洗脳から解き放つ。
カイトとナガレの友情は蘇った。EDシークエンス末尾の、芝生に寝転んで笑い合う、カイトとナガレの笑顔が、とても綺麗だった。

結びの代わりにひとこと

第1回と、最終回について。

今回、わたしは、第1回をひとつも選出しなかった。第1回をパブロフの犬みたいに選出するのは安易だと思ったからだ。この作品がいいね、と思って、早押しクイズみたいに第1回に即決する。これを戒めようと思った。だから来年以降も、たぶん第1回は選出しないと思う。
それにしても第1回とは不思議な存在だ。第1回を観るのは、暗闇の道を歩くみたいなものだ。第1回では、なにも見えてこない。せいぜい監督と制作会社の名前や知ってる声優の声しかわからないし、それだけではやはり見えてこない。すべてがわかるのは最終回を観てからだ。ウラジミール・ナボコフが書いてたっけ。すべての小説は2回読まれるためにある〜とかそんなふうなこと。

わたしは、さみしい最終回が苦手だ。『TARI TARI』の最終回なんか、『フランダースの犬』の最終回なんかより100倍トラウマで、それでも強烈に時々思い出してしまうから、やっぱりさみしいしんみり最終回は苦手だ。

きょう、3つのアニメ番組の最終回を観た。『天体のメソッド』の最終回は、とてもさみしかった。『大図書館の羊飼い』の最終回は、ちょっぴりさみしかった。『異能バトルは日常系のなかで』の最終回は、幸福感に満ちていた、いい最終回だった。大団円になっていた。ストーリーは完結していないが、主題はうまくまとめられていた。いい気分で『異能バトル』を見終えられた。

カレイドスター』の最終回「約束の すごい 場所へ」のような、最終回がただの終わりではない最終回、ここから何かが始まっていく最終回、鳥肌が立つ最終回、心の底から生きる喜びが湧き上がっていく最終回、永遠に続きが観たいとつい思ってしまう、そんな余韻を残す最終回が、もっと観てみたい――。