1話完結と続き物(「話数単位で選ぶ〜」にちょっとだけ関連して……)


師走になってしまった。いろいろと今年を振り返る時期になって来た。

今年のアニメはどうだっただろうか。今月に入り、わたしも努めて今年のアニメ番組を振り返っている。一言で言えば自身の今年のアニメライフは不調で、絶不調と言ってよくて、『プリティーリズム・レインボーライブ』という収穫や、ブログを書く楽しさをようやく認識できた収穫もあったのだけれど……。

それでもわたしは、毎年恒例となった「話数単位で選ぶTVアニメ◯◯選」に参加したいと思う。たぶんこの企画を誰もやらなくなってもやってると思うんで、そこんところヨロシク(偉そうだな)。





http://d.hatena.ne.jp/tunderealrovski/20141216/p1

上の記事でSTRANGERさんも書かれているように、この企画は、「話数単位」なのがポイントなのだと思う。

TVアニメの企画書を見る機会があると、「1話完結構成」みたいに書かれていることがある。ということは「1話完結構成でない構成」のTVアニメもあるということで、今期わたしが観ているアニメならば、『大図書館の羊飼い』なんかは、確実に1話完結構成”ではない”。

大図書館の羊飼い』の画面からは眼が離せないが、わたしの好きな『大図書館の羊飼い』から第何話を選べ、といわれると、どうも選びにくい。続き物のアニメだからだ。

ぎゃくに『ガールフレンド(仮)』みたいな完璧に1話完結構成のアニメだったら、第何話を選べ、なんてわけないことだ、とわたしは思うのだが……。


どうなのだろうか?
他の方は、続き物のアニメのほうが「第◯話」を選びやすい、ということもあるのだろうか? わたしの場合、続き物のアニメから「第◯話」を抽出するのが、どうも不得手なのだ。そうだ、今期のアニメなら例えば、『天体のメソッド』もそうだ。


各話が独立して存在を主張している風なアニメもあれば、川の流れのように、各話が有機的に連続してひとつのシリーズを成り立たせている風な「続き物アニメ」もある。

この記事で強調したいこと、いまのわたしの大きな問題意識は、「1話完結のアニメと、続き物のアニメは、現在のアニメファンに、はっきり分けて考えられているのか」ということだ。

いま「はっきり分けて〜」という書き方をした。思わず「きちんと分けて〜」と書きかけた。良くない良くない、アニメファンに「1話完結と続き物の違いを『わきまえなさい!』」と説教するような真似は。

もともとTVアニメは1話完結が基本だったようだが、いつ頃からか壮大なストーリーを連続性のあるシナリオで描くようになってきたようだ。

さっき企画書に「1話完結構成」みたいに書かれているという話をしたが、作り手は少なくとも、1話完結/続き物 の区別を意識している、ようだ。

わたしは、どうもTVアニメ―とくに深夜枠のアニメ―の作品群が「平均化」されてしまっているような気がしてならない。TVアニメの数は増えているようだ。普通の人間ではさばききれない量のアニメが放映されている。活況を呈す裏で、アニメが日常性に埋没している”危うさ”とでもいうようなものがあるのではないだろうか?

その「平均化」の”危うさ”は、わたしがこの記事でいちばん強調したい「1話完結/続き物 という区別への意識」の問題につながってくる。
極端な例になるが、『ガールフレンド(仮)』と『神撃のバハムート』が同じ土俵で語られてしまう「平均化」の”危うさ”がある。
ガールフレンド(仮)』と『神撃のバハムート』は、まったく違うスタイルのアニメである。そこを勘違いしては、わたしはいけないと思う。

1話完結の『ガールフレンド(仮)』と続き物の『神撃のバハムート』が、アニメファンの意識の中で混濁しているような状況になっていないか? そういう危機感、みたいなものは、ちょっぴりある。

とりあえず、じぶんが今観ているアニメが1話完結タイプか、続き物タイプか、考えてみてはどうだろうか。もちろん、1話完結だけどちょっとずつ話が進んでいく〜という風な混合タイプもあるだろう。いまはそれが主流かもしれない。
でも、じぶんが今観ているアニメが1話完結か/続き物か どちらにより寄り添っているのか、これを考えないわけにはいかないと思う。


大量に商業アニメがさばかれる現在の状況のなかで、アニメが「平均化」される”危うさ”に抗する一助として、「1話完結か/続き物か」といったように、アニメの構成を考える努力が強調されるべきだ。